本を選ぶ
わたしは読書が好きで、出かけるときはたいてい本を1~2冊持っています。
本と同時に、電子書籍の入ったiPadを持っていることも多いです。
本はAmazonで買うことが多いのですが、先日、本屋さんで本を買いました。
本屋さんで立ち読みをして選んだわけなのですが、久しぶりに本選びで失敗しました。
良書に出会えればラッキー、と捉えている反面、今の自分にとって必要のない本を選んだことに、「あら」と思いました。
わたしは本をきちんと読むとき、3色ボールペンを持って線を引いたり書き込んだりしながら読みます。
ボールペンの色や、線やマークの種類を変えながら書き込みます。
特に理解できないところには、「?」を付けます。
その本は、欧米圏の方が諸子百家の思想について論じているものでした。
孔子の項目を読み終わり、その他の諸子百家の思想について書かれているところを少し読み、本全体の1/3ぐらい読んだところで「読むのをやめよう」と思いました。
その時点でたくさん「?」などを書き込んでしまっていて、中古本屋さんに持って行きづらくなりました。
そして今、本屋さんで本を買うときの失敗を防ぐための、予防策を考えています。
良書に出会えればラッキーという考えは変わっていないのですが、あまりに必要のない本を買うと、いろいろなものがもったいないと感じます。
3点挙げてみます。
①本屋さんで本を手に取るとき、「速読」して内容を確認します。この後、もう一段階加えて、必要に応じて一部「浅めの熟読」という段階が必要な場合があると感じました。
②翻訳本というのは翻訳者によって、本の質に天と地ほどの差が出ます。翻訳本の時は、原著の表現はどのような表現なのだろうかと考えながら読み、翻訳者が正確に翻訳しているか推測します。
③帯にキャッチ―な文章が書かれていたり、権威を感じさせる単語が用いられている場合はいつもよりも注意が必要かなと思います。
たぶん今回は、①の「浅めの熟読」を5分でもしていれば買わなかったなぁ、と次に生かそうと思います。
なお、速読して、だいたい内容が分かるようであれば、買う必要がないです。
専門的過ぎて全く理解できない本も読み進められないので買う必要がなく、だいたい5~6割ぐらい理解できるものがちょうど良いのかもしれません。
また、翻訳本は注意が必要で、今回買った本は、欧米圏の方が諸子百家の思想について書いた本の翻訳本でした。
簡単に書くと、伝言ゲームというのは通常段階的に純度が下がるものであり、最後に伝えられるものはもはや原形をとどめていないことがよくあります。
その本からは、そんな印象を受けました。
人生の時間というのは限られていて、読む本の冊数というのも限界があります。
読む本が多ければ良いというものではなく、みなさんそれぞれにとって激選された良書に出会っていただくことができれば、わたしも嬉しく思います。
ダイエットの方法
ダイエットについて、書いてみます。
わたしは職業柄、人を見るとおおよその体重が分かります。
おそらく麻酔科医は、患者さんの体重を“見る”習慣がある方がほとんどだと思います。
麻酔薬は、種類によっては体重で量を決めるので、患者さんの体重を知っておく必要があります。
もちろん、BMIを知るためには身長も必要です。
麻酔をかけるにあたり、太りすぎ(特にBMI35以上)はハイリスク要因になります。
今回は、どのようにダイエットするのが安全な近道なのか、考えてみたいと思います。
病的な痩せすぎや太りすぎは別として、わたしは、人によって適正体重は異なると考えています。
『標準体重』という、さも“正しい”かのような単語が存在しますが、参考にする必要はない気がします。
みなさんそれぞれが、“快適に毎日を過ごす”ことができる体重が、ちょうど良い体重だと思います。
身体が重いと感じるようであれば数kg減らす方が良いかもしれませんし、逆に他人から見て痩せているように見えなくても、一定の体力がないようであれば健康ではない気がします。
では、ちょうど良い体重にするにはどうすれば良いか。
おそらくみなさんそれぞれ、「このくらいの体重が一番体調が良いな」と感じる体重があると思います。
その体重に「設定」してしまってください。
言いかえると、セルフイメージの体重を「設定」する、もしくは体重のコンフォートゾーンを「設定」するということになります。
それが、一番安全な近道だと考えます。
わたしは体重計を持っていないですが、体重はおそらく50㎏±1㎏で保たれていると思います。
現時点でのわたしの場合は、47㎏を切ると、明らかに体力が落ちます。
53㎏になると、身体が重く感じると思います。
10人いれば10人の「このくらいの体重が一番体調が良いな」という体重は異なります。
人間なので当たり前であり、『標準体重』を気にする必要は全くありません。
では、これまで世の中に登場してきたダイエット方法について、少し考察してみようと思います。
最初に一番重要なことを書くと、「何か特定のものを食べる」方法は、「食への執着」を強烈にします。
栄養バランスはそれほど問題ではなく、問題は「執着」です。
「食への執着」が強烈になるので、一時的に体重が減ったとしても、「食への執着」はおさまらず、元に戻るか体重が増える可能性が高いと考えます。
そして、これも重要なことですが、ダイエット市場という一大産業から、わたしたちは刺激を受け続ける環境にいます。
ダイエット市場からメディアを通し、人間の持つ「欲」を、必要もないのに刺激され続けているということを認識する必要があります。
わたしたちが見るべきは、雑誌のダイエット特集やダイエット器具のテレビCMではなく、自分自身の内部、マインドです。
最後に、ストレスについても言及したかったのですが、文脈が複雑になりそうなので、次の機会に考えたいと思います。
「このくらいの体重が一番体調が良いな」という体重に、「設定」です。
「設定」した後は、脳が覚えているので、気にせずに手放してください。
続 アファメーション
先日アファメーションを刷新したので、毎日朝と夜に読んでいます。
毎日読んでいて、「アファメーションはその人とともに、どんどん変化するものなんだな」と、改めて感じています。
今のわたしのアファメーションは、わたしにとって未完成なものです。
では完成させればよいのではという話なのですが、どこに何を付け加えて、どの部分を削るべきなのか、毎日考えています。
おそらく、それらがクリアに見える瞬間が来て、また作り直すのだと思います。
Lue Tice氏のアファメーションを見たことがある方がいらっしゃるかもしれないですが、わたしが知っているLue Tice氏のアファメーションは、シンプルかつ抽象度が高いです。
アファメーション作成におけるルールのひとつに「バランスをとる」というものがあります。
Lue Tice氏のアファメーションは、バランスを取る抽象度を遥かに超えた次元のものであり、見方を変えると、バランスを取るべきもの全てを包括する、とも言えます。
もちろん、アファメーションにはルールはあるものの、正解はなくて、“その時の自分にとってフィットするアファメーション”を作っていただければと思います。
今回アファメーションを作り直して、ひとつ再確認できたことがありました。
バランスを取るという意味で「老後」の項目を考えたのですが、いまのわたしにとって「老後」は存在しないです。
「存在しない」ということに気付いて、なんだか安心しました。
「老」のラインがよく分からないですし、いま比較的自由な生き方をしているので、定年というものも存在しません。
例えば、よくある“常識的”な考え方として、「定年後の老後を悠々自適に暮らす」というフレーズを考えます。
よく考えてみていただければと思います。
それは本当に幸せなのですか?
たった今、悠々自適になることはできないのですか?
なぜか憧れの対象となっている、悠々自適の正体って、一体なにかわかりますか?
そう考えると、「定年後の老後を悠々自適に暮らす」ことは誰かにそう思わされている、have toかもしれないと感じます。
繰り返しになりますが、アファメーションは誰かに見せるものではありませんし、正解はありません。
自由に、そしてワクワクするアファメーションを、じっくり考えていただければいいなと思います。
そしてアファメーションの更新は、いつでも心おきなく、どんどんしてくださいね。
将門塚
先日、将門塚(しょうもんづか)に行ってきました。
平将門の首塚です。
将門塚は大手町のビル街の中にあり、周囲の土地は大規模な工事中でした。
将門塚に近づいた瞬間、なんだか不思議な感覚がしました。
その場から発せられるものに、身体が影響を受けているような、不思議な感覚でした。
中に入り、数十分間そこに居させていただきました。
書きづらいのですが、中に入ってしばらく、鳥肌がおさまりませんでした。
線香の煙が立ち込め、なんともいえない「気」に溢れていたように思います。
言葉で表現する必要はないのですが、これまであまり感じたことのないようなものでした。
「首塚」であり神社ではないので、「人間」から発せられる何かを感じたように思います。
怖いとか、そういうものではありません。
強力な力、信念、そしてその根底にある深い愛情と、悲しみ。
もし行かれたことのない方がいらっしゃいましたら、ぜひ一度行ってみられてはと思います。
コーチングとあまり関係のなさそうな記事を書きましたが、この日の帰り、本屋さんでたくさん本を買って帰りました。
スコトーマが外れ、さらにスコトーマを外そうとしているような感覚でした。
みなさんも、want toで沸き起こることを、いろいろ体験してみてくださいね。
17年ぶり
昨日は寒かったので、入れたお茶に湯気がたくさん立っていました。
一昨日17年ぶりに会った友人に、お茶をいただきました。
17年も時を隔てて友人と会うということはほとんどないので、どんな感じなんだろうかと少し緊張しました。
感想を簡単に言うと、「全細胞が入れ替わってパワーアップするって、こんな風なのかな」と、感じました。
昨日会った友人は、わたしからみると“天才”です。
医学に関してはわたしの方が若干詳しいですが、友人はそれ以外の分野の知識量が半端ではないのが、話していてすぐに分かります。
おそらく、いくつかの巨大な専門性の非常に高いゲシュタルトが存在しています。
ひとつではなくて、複数存在しています。
半端でない知識量にも関わらず、「自分の知識には偏りがあるから」と言いながら様々な分野の話を楽しそうにしてくれるところは、やはり“天才”を感じさせます。
特に、物理や経済の話をしてもらうと、メモをとりたくなるぐらい専門性の高い面白い話をたくさんしてくれます。
本の読み方を聞いてみると、毎月5万円分ぐらい、いろいろなジャンルの本を買い込んで読むと言っていました。
一般的に、巨大で専門性の高いゲシュタルトをひとつでも持っていると、高い抽象度からの見方が容易になると思います。
友人は、ひとつでなく複数のゲシュタルトを持っているので、抽象度をとてつもなく高いところまで上げることができるのだなと感じました。
その友人の目にわたしはどのように映っているかというと、いくつかの試験に合格したり資格を取得しているので、目標を次々と達成しているように映っているようです。
でもわたしから友人を見ると、世界をとてつもなく高い抽象度で見ることができる知識量があり、かつ知識量のみならず、新しい知識を的確に整理しており、そこには世界を変える力があると感じます。
17年前も現在も“天才”であることは変わっていなかったですが、一昨日は、なんだか“強くて優しい天才”だなぁと感じざるを得ませんでした。
わたしたちにはスコトーマ(盲点)が常にありますが、世界の見方を変えるには知識量が必要です。
そして、知識を入れるだけでなく、それらを統合して新しいものを生み出す力が人間にはあります。
わたしたちはいつでもクリエイティブであることを、ときどき思い出していただければと思います。
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