201609.21

認識の違い

Post by 中西千華 2016年9月21日

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つい数日前に、引越しをしました。

そして引っ越しの翌日、鍵の引渡しのため前の部屋に行ってきました。

不思議な感覚を覚えたので、お伝えしようとトライしてみます。

引越し当日、つまり鍵の引渡しの前日まで、どこに行くにしても前の部屋を拠点として考えていました。

当然のことではあるのですが、意識に上るのは稀で、多くの場合は無意識のうちにそのように行動している気がします。

みなさんもおそらく、家から何分とか、家からの方角とか、なんとなく感覚で把握しながら生活されてるのではないかと思います。

鍵の引渡しの帰り道に、以前の最寄駅であった駅の、構内の見え方が異なる感覚を覚えました。

これまでの最寄り駅のホームから引っ越し先の最寄り駅に向かって電車に乗る時、これまでは、“部屋から遠い方向の車両”だと乗り継ぎがスムーズにできる、といった感覚でとらえていたのですが、その方角は、もはや、引越し先の部屋に近い方角なわけです。

「あれ?駅のホームがなんだか違って見える…」

と、一瞬、見慣れた駅ではないところにいるような感じがして、駅のホームと方向を、表示を見て改めて確認しました。

それまでは迷ったことも考えたこともなく、そして駅が違うふうに見えたこともありませんでした。

おそらく、“前の部屋を拠点とした認識”と、“引越し先の部屋を拠点とした認識”が、異なることにより起きた現象だと考えています。

「見ているものは同じで変わらない。

違うのは、自分の認識のみ。」

ということになります。

コーチングでは私たちの内部が外部を決めるという表現をしますが、理解はできても実際のところなかなか体感する機会はありません。

わたしは、「なるほど」と思って、電車に乗りました。

わたしたちの内部表現によって外部というものは変化します。

もしも体感として感じる機会がありましたら、しっかり意識に上げて認識していただければと思います。

201609.21

片付けと過去

Post by 中西千華 2016年9月21日

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ここ1週間ほどの間に書いて投稿していなかった記事を、順次投稿します。

現部屋の片付けがラストスパートに入りました。

わたしは勝ち負けをあまり好みませんが、半ば過去の自分に勝つべく、部屋にあるモノと対峙しています。

モノを片付けていると、嫌でも過去の自分と向き合う必要が出てきて、過去の自分が目の前にいるような感覚の時があります。

あるモノを捨てるかどうか決める際には、完全に未来に立ち、未来の自分にとってそれが必要かどうかを決めるようにしています。つまり、未来のコンフォートゾーンにおいて、そのモノが存在するのかどうかを見ています。

そうなってくると、容易に予想できますが、実はほとんどが過去のモノであり、未来においてそれらは必要ないのではないかと思えてきます。

未来からの視点を持つと同時に、一つ一つのモノたちにとって、どうあるのがベターなのか考えながら作業しています。

わたしは、使っていないモノがあれば、使ってくれる人に譲る方がモノが生きると思います。

できるだけ全てのモノが生きることを考えると、随分いろいろなモノが次の持ち主のところへ行きました。

いま部屋にある持ち物の中で一番古いものを考えてみると、19歳のころに親に買ってもらったスケート靴かなと思います。

アイスホッケーをしていた時期が少しだけあり、防具はかなり前に現役選手にゆずりました。

スケート靴は、スニーカーなどよりもはるかに各個人の足型になるので人に譲れるものでもなく、ずっと持っています。

アイスホッケーを始めたとき、妹の一人と一緒に始めたのですが、防具一式とスケート靴は決して安いものではありません。

わたしの実家は一般家庭で、子供を甘やかせる余裕は全くなかったはずなのに、何も言わず大阪のアイスホッケー道具のお店に連れて行ってくれた親は本当に凄いなと、ずっと感謝しています。

なんとなくわたしのスケート靴は良い気をまとっており、対峙できないので、持っていようと思います。

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