201608.17

煩悩をみつめる

Post by 中西千華 2016年8月17日

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煩悩について考えます。

煩悩の強い人は、良い仕事ができない、つまり抽象度の高い思考ができない、ということは苫米地英人氏も著書の中でよく書かれていることです。

強い煩悩は抽象度の高い思考の邪魔をします。

煩悩とは、食欲や物欲、睡眠欲や性欲など、人間の持つさまざまな欲望です。

食べ物に関しては、菜食主義など内容に対するこだわりは執着に入ります。

また、服装など、自分自身の見た目に過度にこだわることも執着です。

煩悩は悪いものではなく、わたしたちが人間である以上、消す必要はないしある程度は必要です。

人生を楽しむという意味においても、煩悩をほどよく満たすことで楽しむことが可能になります。

しかも、抽象度の高い思考をしてゴールに向かうにあたり、衣・食・住は満たされている必要があります。

ただし、必要以上の強い煩悩で衣・食・住を追いかけてしまうと、もはや抽象度を上げることは不可能である気がします。

基本的に煩悩は抽象度が低く、また、煩悩は執着を生みます。

何かに強く執着すると、抽象度の天井、つまりIQの天井が必ずできます。

可能であれば、IQに天井ができないような生活をするほうが、ゴールに近づく可能性が高くなります。

少し難しいですが、矛盾しそうで、矛盾しません。

重要なことは、わたしたちは人間なので煩悩を消すことはできないし、消そうとする必要は全くなく、抽象度を下げない程度に煩悩をコントロールする、というバランスを取ることです。

ときどき、自身の煩悩がどの程度か、強すぎない程度にバランスがとれているかどうか、チェックしてみてください。

201608.16

続「ちいさなちいさな王様」

Post by 中西千華 2016年8月16日

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続編です。

この本の中のあるシーンが素敵で、印象に残っています。

「4 命の終わりは永遠のはじまり」という章で、夏の夜に「僕」と「王様」が一緒に空の星をみています。

実際には、「僕」の上に「王様」が仰向けになってひっくりがえっています。

僕の、「自分がひどくちっぽけで、無意味なものに感じるよ」という言葉に対し、王様が「おまえというやつは、それだけ大きな図体のくせして、あの彼方にある星をちょっと見ただけで、もう自分がちっぽけだなどと思うのかね?」と言っています。

このあと、王様が自分が星を見てどんな気分になるか話した言葉が、とても魅力的なので、ここは全文引用します。

「なんだか、自分が巨大になっていくような気がしてくるのだ。おれはどんどん伸びて大きくなっていくばかりだ。宇宙までとどくぐらいにな。大きくなるといっても、あの、空気を入れてふくらんでいく風船のようにではないぞ。あんなのは、いつかは限界に達して、パンッと割れてしまうからな。そうではなくて、まったくなんの心配もなく、あたりまえのようにすくすく大きくなるのだ。なにか、表面の皮とかが、無理に薄くひっぱりのばされていったりするようなことはない。自分がまるで、もくもくとふくれあがっていくガスになったような気分だ。そのうちにおれは、宇宙の一部にすぎない存在ではなくなる。おれ自身が宇宙全体となって、あの無数に輝く星さえも、おれの中にあるのだ。この気持ち、想像できるかね?」

王様の気持ち、想像できますか?

もしかしたらできる方もいらっしゃるかもしれません。

この王様の言葉はとても大切なことを表現していると思います。

「自分自身というものが、宇宙を内包する」というような表現になるかと思うのですが、そのことを優しくキラキラと表現している気がします。

この本を子供に読み聞かせたら何を感じるのだろうと、とても興味深いです。

訳も素晴らしいですし、挿絵もとても美しいです。

小さな王様が胸を張っていたり、ちょこんと座って居たり、この挿絵はミヒャエル・ゾーヴァ氏にしか描くことができないのではないかなと思います。

機会がありましたら、ぜひ一度読まれてみてください。

「ちいさなちいさな王様」(アクセル・ハッケ作、ミヒャエル・ゾーヴァ絵、那須田淳/木本栄共訳 講談社)

201608.16

「ちいさなちいさな王様」

Post by 中西千華 2016年8月16日

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少し前から、不要なものを手放すという作業を続けています。

その作業の中で、「ちいさなちいさな王様」という本を久しぶりに手に取りました。

挿絵がとても魅力的な、「ちいさなちいさな王様」(アクセル・ハッケ作、ミヒャエル・ゾーヴァ絵、那須田淳/木本栄共訳 講談社)です。

これは妹からもらった大切なものなので、手放しません。

この物語の登場人物は、「僕」と「王様」で、王様は十二月王二世という名前です。

「王様」は「僕」と出会った時には「僕」の人差し指ぐらいの大きさです。

王様の世界では、生まれる時は大人としてベッドで目覚めます。

王様の言葉を引用すると、「おれはだな、ある朝、ふいにベッドで目覚めたのだ。それから仕事をしに王子の執務室に行ったのさ。実に、単純なことじゃないか。おなかの中にいるだと?ばかばかしい!人生というのは、ある日起き上がって、それですべてがはじまるのだ」と王様は言っています。

この言葉はなかなか面白くて、わたしたちも朝起きたとき、1日という人生を始めている気がします。昨日までの記憶との連続性があるためにすべてがはじまったようには感じませんが、実際には新たに始まっているのではないかと思うことがあります。

王様の世界では、そのあと少しずつ小さくなって、見えなくなるぐらいになるそうです。

小さくなればなるほど、多くのことを忘れていくけれど、人生経験が豊富なので偉いそうです。

王様が見えなくなったら、王子が王位を継承します。

僕が質問しています。「きみには、ひょっとして永遠の命があるのかい?」

そのあと僕がひとしきり質問したあと、それに対して王様は「そんなこと、おれにもわからないな」と答えています。

「死」という言葉が出てこないのが気になるというか、魅力的というか、小さくなって見えなくなったあとどうなるかはわからない、というのがなんとも深いです。

わたしはいまだに、この本のストーリーの意味がはっきりと理解できずにいます。

短い本なのですが、いろいろな意味がたくさん込められていて、それをすべて拾いきれずにいるような感覚です。

続編に続きます。

201608.14

神社仏閣めぐり

Post by 中西千華 2016年8月14日

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1年前や半年前の自分には想像もつかないことなのですが、今日は神社巡りをしました。

写真は愛宕神社です。

今日1日で、たくさんスコトーマ(心理的盲点)が外れました。

師であると同時に親友でもある人と一緒に、3か所の神社に行きました。

わたしは今まで、お守りをことごとく捨てていたのですが(それに関してはこれからも変わらない可能性はありますが)、それはそれ、これはこれ、という感覚です。

祀られている神にご挨拶と同時に、自分自身の内観のための神社巡りでした。

自分自身を内観するには、神社巡りはとても良い気がします。

自分の感覚が研ぎ澄まされて行くのが分かります。

今日は最初は2か所の予定だったのですが、わたしたちが呼ばれて行きついた神社がありました。

「お久しぶりです」と言わざるをえないような神が祀られていて、「あ、呼ばれちゃった」と思いました。

わたしたちの潜在意識が探し出したという見方もできるかと思います。

神社巡りに関しては、どうする方が良いとかそういったものはないですが、みなさんに必要であればその時が来るような気がします。

201608.14

お茶会します

Post by 中西千華 2016年8月14日

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9月4日(日曜日)にお茶会を開催します。

お茶会(&)セミナーができる場所が確保しづらいため、今のところお茶会とします。

美味しい珈琲や紅茶を飲みながら、苫米地式コーチングやわたし自身のお話をしたり、みなさんのお話をお聞きしたいなと考えています。

もしもセミナーを御希望の方が多い場合は、カフェではなく、ホワイトボードがある場所(飲み物はご準備願います)を準備いたします。お茶会もセミナーも内容はそれほど変わりませんが、ホワイトボードがある方が説明しやすいので、理論がわかりやすいかもしれません。御希望をお聞かせください。

どちらにせよ、お気軽にご連絡いただければと思います。

日時・・・9月4日(日曜日) 11時すぎから、1時間~1時間半ぐらい

場所・・・東京都内某所

費用・・・5,000円(銀行振込、お茶会の場合は飲食代別途)

お申し込みは、ホームページの問い合わせフォームからお申し込みください。

なお、場所やお振込み先など詳細は、後ほどメールでお伝えいたします。

いつも、open mindでお待ちしております。

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