温かなプレゼント
温かなプレゼントをいただきました。
午前中に手術室で準備をしていたときに、「先生、はいこれ」とくださいました。
見た瞬間に、何があったのか、全て分かってしまって、少しだけ動揺しました。
二週間ほど前から、遠隔気功をされているような感覚があり、気になっていました。
ちょうどそのころに気功師の知り合いから連絡をもらったので、遠隔気功をしてくれているのかな?と考えていましたが、気功師によるものではないような感覚でした。
何か起きているのかもしれない、と考えていました。
よく分からない文章を書いて申し訳ないです。
言葉で表現できないものを、言葉に落とし込もうとすると、限界があります。
プレゼントをいただいてから、『たった今、自分が動揺してしまったら困るな』と思いながら準備をしていました。
多くの医師はそうだと思いますが、わたしは基本的に、抽象度をかなり高いところに置いています。
視点を高く置いておくと、視野が広がり、よほどのことがない限り動揺しません。
その一方で、わたしは自分がなかなかの泣き虫であることを誰よりも知っています。感情を娯楽として楽しみなさいという話もありますが、そんな悠長なことを言っていられないときがあります。
人間だからです。
『困ったなぁ』と考えているうちに、温かなプレゼントの向こう側に、幸福感というか安心感というか、優しいものが感じられてきました。
そしてふと、気持ちが温かくなりました。
『ああ、良かった。すごく幸せなんだ。』と思いました。
二週間にわたる、不思議な感覚の謎が解けました。
明治神宮へ
昨日、明治神宮へ参拝に行ってきました。
特別何かあったわけではないのですが、いつのまにか「明治神宮へ行きたい」という思いが募っていました。
朝から天気が良く、参拝日和でした。
南池では睡蓮の花が美しく咲いているのを見ることができました。
写真以外にも、ピンクの睡蓮の花が咲いているのも、遠くに見えました。
本当に、本当に、美しかったです。
睡蓮の花は散るのが早く、いつでも見れるものではないので、なかなかの幸運でした。
今はあまり水が湧き出ていないようです。
また、こんこんと水が湧き出るようになるように、一参拝者として祈らせていただこうと思います。
まさに森で、東京のど真ん中にいることを完全に忘れてしまいそうな、素晴らしいところです。
木々は生き生きと伸びやかでした。
護られた場所であり、護ってくれている場所なのだなと、感じました。
そういえば、清正井の近くで、一人で動画を撮っている女性がいました。
「…億万長者になります。」と声に出しているのが聞こえました。
つい、『“億万長者”という表現はでなく、期限と金額を決めましょう!そして抽象度の高いゴールも考えましょう!』と言いそうになっている自分が可笑しかったです。
個人的には、神社は願い事をする場所ではないと認識しているのですが、明治神宮にはどんな願い事でも受け止める雰囲気があります。
優しくて大きくて、いつも変わらずそこにある。
また行きたいと思います。
普段の生活の中にある、たのしみ
『たのしみは ぶどうやくりを食べながら家族みんなで会話するとき 由季』
少し前になりますが、東京メトロを乗り換えようとしたところで、展示会をしていました。
こちらは、交通事故重度後遺障害者の作品のひとつです。
ふと目に入り、「わたしもそう思う。」と、立ち止まりました。
普段の生活の中にある、たのしみ。
みんなが羨ましがるようなもので幸せは手に入らなくて、普段の生活の中に、本当に幸せな瞬間があります。
幸せというものは、相対的なものではなくて絶対的なものだと思います。
本当に幸せな瞬間に、幸せであることに“気付くこと”が大切です。
木々と蝉の声
初めての病院での勤務は、かなり久しぶりです。
電車を降りた瞬間から緑がいっぱいで、蝉が鳴いていて、とっても清々しい雰囲気の街でした。
なんだか、地元に帰って来たかのようなホッとした気持ちになり、不思議な感覚でした。
わたしの地元の景色と似ているのかなぁ、どこが似ているかなぁ、などといろいろ考えていました。
森のような場所が多くあったので、もしかしたら森林浴ができたのかもしれません。
木々の癒しの力は凄いです。
残暑の中、幾重にも重なって聞こえる蝉の声にも、癒してもらったように思います。
東京にいると、“頑張らなきゃいけない”というたくさんの人の気持ちがあらゆるところに蔓延しているように感じます。
あらゆるところに、have toが蔓延しています。
他人のhave toで、なぜかわたしが徐々に息苦しくなっていたのかなぁ、とふと思いました。
なんとも素敵な街で、学びも多く楽しい一日でした。
友達とはなにか①
書き始めようとして、なかなか答えのないテーマだなと感じています。
答えはないのですが、書いてみようと思います。
もう、何ヶ月も前の話ですが、わたしは毎週のように週末にお茶をしたり食事したりしている友達が3人いました。
一緒にいるととても楽しくて勉強になりました。
もともと彼ら3人がいたところに、わたしは彼らによって温かく迎え入れてもらっていたのだと思います。
あるとき、別の知り合いを紹介しようと思い、わたしを含め4人で集まるときにその人を呼んだことがありました。
皆で食事をして楽しく過ごしました。
その後、その知り合いに会ったときに、こう言われました。
「どうして中西さんは、コンフォートゾーンの違う彼らと一緒にいるの? 」
コンフォートゾーンというのは、快適だと感じるものの幅であり、生活すべてにおいてコンフォートゾーンがあります。
その人いわく、「彼らはわたしが付き合う人たちなのか、疑問だ」ということでした。
その人は“healerとしての力”に言及していましたが、どう考えても明らかに収入だけをみて言っているように感じました。
わたしは、気功を始めてから目に見えないものを少しずつ感じるようになり、いろいろなことが透けて見えることがあります。
透視できるわけでも読心できるわけでもなく、肌で感じるというだけですが、おそらくわたしの直感は大きく外れていないはずです。
ちなみに友達3人の収入は、日本の平均収入から乖離していない、普通の収入だったと思います。
「どうして中西さんは、コンフォートゾーンの違う彼らと一緒にいるの? 」
と言われた、わたしの気持ちが想像できるでしょうか。
自分でもびっくりするぐらい、腹が立ちました。
「大きなお世話です。あなたの目はふし穴ですか。」と言いそうになりました。
その人はコーチングのコーチでもあるので、そのことが、残念に思うわたしの気持ちを後押ししました。
一人の人間にはコンフォートが無数にあります。
コンフォートゾーンが近い人たちが集まるとはいうものの、それは、その人がどのコンフォートゾーンを重視するかに依存します。
要は、わたしが一緒にいる人たちがどんな人かは、わたしが何を重視するかに依存します。
それは、わたしが決めることです。
そして、みなさんが決めることです。
抽象度の低い要素だけを見て、友達を蔑まれた感覚でした。
その人自身が寂しいのか、わたしを持ち上げたかったのか、そんなことはわたしに関係ありません。
大切な友達を蔑まれることが、こんなに腹が立つことなのだと、学びました。
ちなみに3人の友達は、稀に見る純粋さを持っている、キラキラしている人たちでした。
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