反論する力
今日は休憩時間にニュースを使って反論のトレーニングをしようと思い、テレビのあるところで一休みしようと思いました。
数年前からお世話になっている病院で一人で休憩しても良いよと言ってもらっている部屋があり、そこにはテレビがないと思い、スタッフの方々が使うスペースに行こうと考えました。
よく考えると、いつも休憩に使わせてもらっている部屋にテレビはありました。
むしろソファとテレビのみがある部屋で、テレビを付けたことがなかったので、すっかりオブジェのような認識をしてしまっていました。
これもスコトーマ(心理的盲点)の例ですね。
休憩時間中は、相模原の事件に対してコメンテーターの方々から発せられるコメントに、心の中で反論していました。
「反論」の意味をはき違えられると困るので言いますが、事件を起こした人物を擁護しようがないです。
ここでわたしは事件について意見をなにもいいませんが、思ったことはたくさんあります。
大事なのは、いろいろなニュースをひとつひとつ、いちいち、吟味できる力です。
これを読んでくださっている方々には、テレビをなんとなくつけっぱなしにする方はいないと思いますが、メディアから発せられる考えや情報を、いったん反論する習慣をつけると良いと思います。
「ハウルの動く城」パート3-戦争
先日、宮崎駿監督「ハウルの動く城」において、ハウルがその場面ごとに違って見えることについて書きました。
「ハウルの動く城」の原作は、Diana Wynne Jonesによる「Howl’s Moving Castle」です。
そして「ハウルの動く城」では、原作にはない、戦争のシーンが付け加わっています。
宮崎駿監督はなぜ、戦争のシーンを描く必要があったのか?
この意味は「ハウルの動く城」の中でも非常に深いところにあるように思います。
戦争のシーンをもって、宮崎駿監督はわたしたちに何を伝えようとしているのか?
しかも、おそらく子供たちに何かを伝えるために、戦争のシーンをあえて付け加えています。
戦争を全く経験していない子供たちに対して、です。
わたしも戦争を直接的には知らない世代に入ります。
なぜか?
「戦争の残虐さを伝えたいから」それだけではない気がします。
過去の戦争について考えるべきなのか、現在起きている戦争や争いについて考えるべきなのか、未来に起きる可能性のある戦争について考えるべきなのか。
すべてについて考えざるを得ないような描き方をしているような印象を受けます。
過去の日本に焦点を合わせると、戦前の日本、戦時中の日本、戦後の日本、これを正視するように言われているようにも感じます。
ひとつ言えることは、戦争が起きれば、100%人間が死にます。
「ハウルの動く城」を観る機会がありましたら、みなさんそれぞれに、じっくり考えていただければと思います。
ひとつ、思い出したことがあるので追記します。
20数年前に、今は亡きわたしの祖父に、戦争で経験したことを書いた原稿を渡されました。
何部か冊子にしてほしいと言われ、何部かコピーをして、田舎の文房具屋さんで手に入る材料で、冊子にした記憶があります。
当時のわたしは、ほとんど何も理解していませんでした。
今手元になく、以前実家に確認したときにもすぐには見つからないと言われました。
内容は一部覚えていますが、とてもじゃないですが、ここには書けないような悲惨な描写がされていました。
本当に、ここには書けないです。
わたしの祖父の身体には2か所、撃たれた銃弾の跡がありました。
医師の視点から見ると、たまたま致命的ではないところに当たっています。致命的ではないにしろ、誰かに撃たれたことは確かで(おそらく祖父も誰かを撃ち)、出血し痛みに苦しんだであろうことも確かです。
いま心から、祖父の書いたその文章を読みたいと感じています。
彼が何を残そうとしたのか、知りたいです。
意識に上げる
今日は、「意識に上げる」意味について考えています。
様々なことを「意識に上げる」トレーニングについては苫米地英人博士の著書にも書かれています。
また、おそらく、私を含め苫米地式認定コーチが日々実践していることでもあります。
例えば、目の前にあるペットボトルについて考える。
苫米地英人博士の著書にも書かれていますが、「縁起瞑想」といいますね。
目の前にあるモノの縁起をどんどん考えていく。
ペットボトルの素材や、製造過程や、廃棄後の流れや、歴史、またはペットボトルの中身について考えても良いかと思います。
こういった、「意識に上げる」ことは何の作業をしているかというと、モノを物理空間の存在から情報空間への存在へと広げる作業だと考えます。
情報空間への存在へと少し広げ、そしてさらにその先に広がっている縁起の世界を考える、そういった作業をしていることになります。
そうしたらここで、縁起瞑想は何のためにするのか?というところへとたどり着きます。
よく言われるのが「抽象度を上げるため」ですよね。
では、なぜ抽象度を上げる必要があるでしょうか?
「エフィカシーを上げるため」という答えでは少し足りないような気がします。
わたしにはわたしなりの答えが、現時点での答えですが出ました。
みなさんも、ぜひ考えてみてください。
「ハウルの動く城」パート2-ハウルの違い
以前にも、宮崎駿監督の「ハウルの動く城」についての記事を書きました。
その時には、ソフィーの「心って重いの」という言葉について書きました。
今回はハウルに注目して書こうと思います。
わたしには、初めて「ハウルの動く城」を観たときから、それぞれのシーンごとにハウルが微妙に違うのが不思議でした。
髪や目の色はもちろんですが、身体の大きさも違って、全く別人のように描かれているように見えます。
魔法使いだから髪の色などを自ら変えている、と言ってしまうとそれまでなのですが、それだけではない何かを感じます。
当初は、いくら魔法使いでも…と、単純に疑問に感じていました。
苫米地英人博士の著書の中に「あなたも『あなた』という情報場の写像」という言葉があります。
これがまさにしっくりきます。
ハウルは、そのシーンごとの「ハウル」という情報が物理空間に現れたもの、と考えると分かりやすいかと思います。
そのシーンごとに、宮崎駿監督がハウルによって現したい情報が違っており、結果的にハウルが全く違って描かれているのだと感じました。
そう考えると、わたしたちはわたしたち自身の写像(物理的な存在)を変えることが可能です。
写像を変えるというよりも、マインド(脳=心)、ブリーフ(belief)が変われば写像も必然的に変わるのだと思います。
やり方は?となるとここでは説明しきれないので、またの機会にお伝えできればと思います。
シャトルバス
今日は仕事の帰りにシャトルバスに乗りました。
病院は、立地によって、最寄駅からシャトルバスが出ているところがあります。
みなさんの職場でも、もしかしたら会社所有のバスが会社と駅を往復しているところがあるかもしれません。
帰り際にたまたまシャトルバスが止まっているのが目に入り、小走りにバスまで行き、出発直前に乗りました。
座ってすぐにバスが動き始め、ふと行き先を確認しなかったことに気付きました。
確認しなかっというより、わたしの行きたい駅に行くような気がしてしまっていました。
バスのステップの横あたりに行き先が掲示されているので、普通は、バスに乗る時に目に入ります。
でも、わたしはバスのステップに集中していたので、「見ていたのに見ていなかった」ことに気付きました。
そして案の定、行きたかった駅には行かず、初めて使う駅から電車に乗ることになりました。
そうです、スコトーマ(心理的盲点)の説明ですね。
何かに集中していると、それ以外のものは、見ていても意識に上がってこなくなります。
何かが見えなくなっている状態を、スコトーマがある、スコトーマに隠れている、などというふうに表現します。
視覚に限らず、どんな感覚でも、情報空間のことでも、スコトーマという言葉を使います。
コーチの役割として、みなさんの「スコトーマを外す」ということも大切な役割です。
ゴールに向かう際に、重要なものがスコトーマに存在していることがあります。
その重要なものを見えるようにするために、コーチはみなさんの視野を広げます。
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