スコティッシュフォールド|未来
わたしの部屋には動物が何匹かいて、彼らから学ぶことがとても多いので一度紹介させていただこうと思い、書いてみます。
今回は「未来」という名前の猫を紹介します。
耳の折れ方は少し分かりにくいですが、折れ耳のスコティッシュフォールドです。
性別はオス、生後9ヶ月、体重は約3.8kgです。
目が特徴的で、左がブルー、右がゴールドのオッドアイです。
「未来」のとても面白いところは、24時間ふざけていることです。
わたしを笑わせようと努力してくれているのかと思うぐらい、四六時中面白いことをしています。
「未来」はブリーダーさんから譲ってもらいました。
ブリーダーさんが自宅へ連れて帰ろうかと迷っていたぐらい、レアなとても人懐っこい猫です。
ただ、子猫の時の「未来」は、とても変な臭いがしました。簡単に言うと臭かったです。
ブリーダーさんはそのことについて言及していませんでしたし、「未来」を見に来てくれた友人も‟臭いは分からない”と言っていたので、たぶんわたしの嗅覚が何かを感じ取っていたのだろうと思います。
ブリーダーさんから譲ってもらってすぐに、2回目の予防接種を受け、「未来」は急激に体調を崩しました。
予防接種によって体調を崩すことは動物でも人間でもありがちなことで、わたしたちもインフルエンザの予防接種で体調を崩すことがあるかと思います。
「未来」の場合は‟体調を崩す”というものではなく、死んでしまうのではないかと思いました。
症状としては風邪や肺炎のようなものでしたが、呼吸が苦しくて横になることができないぐらい、激しいものでした。
後から考えると、予防接種による影響で体調を崩した上に、何か別のものに感染したのではないかと思います。
獣医さんからは、もしかしたら致死的なウイルス疾患かもしれず、もしそうであれば助ける方法はないので100%死んでしまう、という説明を受けました。
超短期間で‟100%”死ぬウイルスというのは、人間の感染症として身近には存在しないと思います。
そして、「未来」はあらゆる生き物が最も可愛い子猫である間、ボロボロの状態で過ごし、復活しました。
「未来」の小さくて可愛らしい時期の写真はあまりありません。
ボロボロの数ヶ月を過ごしながら、体調がゆっくりと改善するとともに、変な臭いが消えました。
おそらく、わたしが嗅ぎ取っていた臭いは‟免疫力の低さ”によるものだったのかもしれないなと思います。
わたしがリアルに普通に感じ取ってる臭いを、他人は誰も気付いていないという現象が起きていたので、人間の五感というのは不思議だなと感じました。
「未来」がわたしに教えてくれることはとても多いです。
目の色が左右違うのは単なる遺伝子の発現に寄るものですが、いろんなものの見方をしようと思い出させてくれます。
ずっと楽しそうに見えるのは、まさに未来におけるゴール設定の仕方を教えてくれているように感じることもあります。
そして、ずっとふざけたりおちゃらけたりしているように見えるのは、ゴールはそのくらい度が過ぎたものがちょうどいいのかなと思うこともあります。
なんといっても、「未来」は一度死にそうになったという過去があり、それを乗り越えてくれて今一緒に過ごしてくれているというのが、御縁なんだなと思います。
子供の泣き声
最近、18時頃から20時頃にかけて、ほぼ毎日子供の絶叫のような泣き声が聞こえることに気付きました。
今日も断続的に聞こえていて、なんとも言えない気持ちになります。
泣き叫んでいる子を、こちらへテレポーテーションできないかなと思ったりします。
今の住まいに引っ越してきて3週間になりますが、初めて気付いたのがほんの数日前です。
初めて気付いた時は本当にびっくりして、窓から外をみたところ、道を挟んだマンションの一室の窓が網戸になっていて、怒って叫んでいる女性と、オムツをした幼い子どもが、少しだけ見えてしまいました。
そのときは泣き声は一人じゃないような気がし、兄弟で泣いているようでした。
今聞こえているのは、先日気付いた同じ部屋からではなく、別のところから泣き声がこちらまで響いてきているように感じます。
残念ながら、子どもが絶叫のような泣き方で泣いている部屋が、複数あるようです。
どうして気付くまで3週間もかかったのだろうかと考えていたのですが、わたしの部屋の窓を閉めきっていたからだと気付きました。
大切なことなのですが、誰かの声を聞こうとするときに、わたしたちはこちらの窓を開ける必要があります。
こちらの窓というのは、いわば心でありマインドだとも言えるのですが、それを相手に向けて開けておく必要があると思います。
わたしたちは日々の生活で疲れたり、余裕がなくなることがあって、窓を閉めてしまっていることがよくあるように感じます。
わたしは、たくさんの方々の声を聞くことができるように、できるだけ窓を開放していようと思います。
ゲシュタルト-和歌山
最近通りを歩いていて、このようなものを発見しました。
わたしの地元は和歌山なのですが、和歌山県民にはお馴染の、グリーンソフトです。
グリーンソフトは和歌山にある玉林園というお茶屋さんが作っているソフトクリームです。
グリーンソフトは玉林園が出している、グリーンコーナーという名前のお店で売られています。
グリーンコーナーは何屋さんかというと、和歌山県民はおそらくグリーンコーナーをグリーンコーナーとしてとらえていると思うのですが、ラーメンやグリーンソフト、明石焼きや焼きそばや丼もの、いろいろなものを出しています。
基本はてんかけラーメンで、食べた回数は分かりません。
ちなみに、てんかけラーメンは決して「和歌山ラーメン」という豚骨醤油の範疇に入るものではなく、味としては「グリーンコーナーのてんかけラーメン味」です。
書いていて、自分でも面白いなと思います。
そして、グリーンソフトに関して、こちらで売っているのは持ち帰り用のかたいグリーンソフトですが、和歌山県民は基本的に、店頭で売っている柔らかいグリーンソフトを買って食べます。
柔らかいグリーンソフトはないのかなと、店内をのぞいてしまいました。
そういった情報が、この看板を見ただけで、一気に思い出されます。
こういうものが、ゲシュタルトです。
この場合は「グリーンコーナーのゲシュタルト」ですが、より上位の概念として「和歌山のゲシュタルト」というものが存在し、その中にグリーンコーナーが含有されています。
そして、今日はこの方の後ろ姿を発見しました。
そう、和歌山県のゆるキャラ、「わかぱん」です。
子どもたちと戦っていて忙しいご様子でした。
わたしの反応としては、「あれ、わかぱんだよね、和歌山だよね」と思いながら正面に回って確認しました。
わかぱんは、2011年に登場しており、要するに、わたしが和歌山から離れた後に登場したゆるキャラなので、わたしの「和歌山のゲシュタルト」には入っていなかったということになります。
正面に回って確認しないと、確信がありませんでした。
感じたことは、今後、わたしたちは何かのゲシュタルトを構築しようとすることがあると思います。
例えば、何かについて学ぶときに、たくさん本を買ってゲシュタルトを構築するかもしれません。
その際、最初にできるだけたくさんの情報を頭に入れておく方が、後から追加するよりも断然良い気がしました。一気に短期間で構築するのがベターかなと思います。
もちろん後から付け加えることも可能なのですが、ゲシュタルトの中における情報のつながりの強さが、最初から多くの情報とリンクさせておく方が強いと感じました。
ゲシュタルト、ときどき意識してみてくださいね。
六畳一間
在宅医療に関する記事を数回に分けて下書きで書いていたのですが、壮大すぎるテーマで、今日は中断しました。
今回はわたしにとって書きやすいものを書こうと思います。
ここ1年ぐらいの間に、在宅医療のお話を聞く機会がとても増えた印象を受けています。
先日、在宅医療に携わっていらっしゃる医師の方とお話をする機会がありました。
正直なところ、びっくりすることばかりで、スコトーマ(盲点)をたくさん外してくださったことに感謝しています。
その方からお聞きしたお話で印象に残ったことはたくさんあるのですが、今回は一つだけ書こうと思います。
「人間最後は六畳一間」
という言葉で、最後か最期か、難しいと思いながら書いています。
人間長生きしていると、最終的には六畳一間で良くて、あとはトイレがいかに近い場所にあるかとか、お風呂がどこにどんな風にあるかなどが問題になってくるというお話でした。
この話はわたしにとって、とても印象に残りました。
わたしの父方のお祖母さんが、数年前に93歳で亡くなりました。
実家に「おばあちゃんの部屋」があって、そこで座った状態で意識がなくなっていました。
そのとき実家には父と母と妹一人がいて、夕飯の支度ができ、お祖母さんを呼びに行ったときに意識がなくなっていたと記憶しています。
実家の家族から電話があって、救急車を呼んで市内の大きな病院にいるということでした。
その後、確か、「なんとかバイタル(血圧、脈拍、酸素飽和度)を保っているが、バイタルが落ちてきたときに延命措置をするかどうか」、医師に聞かれていると電話がかかってきました。
CTを見た医師の話によると、おそらく既に頭蓋内に血種ができていて、それが再出血したのではないか、という話でした。
わたしに医師免許があるというだけで祖母の延命措置を決めることはできないので、息子である父親がどうしたいか決めてください、とお願いしたような気がします。
93歳の祖母の身体がどんな風かわたしも知っていて、亀背の小さい体で、血管も細くて脆くて、アグレッシブな医療はすべきではないと思う反面、0.00…%の確率で助かるのであればという思いもありました。
父親は延命措置を拒否しました。
今でも、わたしにとって、彼の決断は尊敬に値します。
正しいかどうかではなく、予測できない緊急事態で動転している中、よく決断したなと心から思います。
話を戻しますが、実家の「おばあちゃんの部屋」は、まさに六畳ぐらいで、そこに箪笥が二つと押入れがありました。
逆に言うと、それ以上のモノを、彼女は持っていませんでした。
トイレまですぐ近くなのに漏らすこともあったりして、大変そうだったなぁと思い出しました。
お風呂場も近くにあり、誰の助けも借りずに入っていましたが、お風呂場に上る段差がとても高かったように思います。
「人間最後は六畳一間」という短い言葉の中に、たくさんの意味が詰まっています。
93歳というほぼ一世紀を生きた方のことを、とてもたくさん思い出しました。
コーチング的には、わたしがいま記述したことは瞑想の一つに当たります。
瞑想には方法がたくさんありますが、瞑想することは、抽象度を上げるトレーニングになります。
ぜひ、ときどき瞑想して、抽象度のコントロールの仕方を身につけていただければと思います。
身体を意識する
医師としてではなく、一人の人間として、わたしたちの物理的な身体は、とても大切だと思います。
わたしが記事を書くという行為も、みなさんが記事を読むという行為もそうですが、わたしたちの多くは頭で考えながら生きています。
また、抽象度を上げるためには深く考える必要があります。
深く考えて抽象度を上げて、抽象度が上がったらさらに考えて、と、そうこうしているうちに身体が放ったらかしになることが、時々あるように思います。
みなさんも、もしかしたら同じように感じた経験があるかもしれません。
わたしたちに気にかけられなくなった身体は、ときに病気と言われるようなものを引き起こすような気がします。もしかしたら注意をひくためかもしれません。
当たり前なのですが、わたしたちは身体があるから、わたしたちでいることができます。
ときどき、というよりも度々、身体に意識を向けてリラックスしたり、顔や手足をマッサージしたりしてください。
そして、何もしない日もあって、わたしは当然だと思います。
本を読まなくていいし、手帳を見なくていいし、掃除をしなくていいし、洗濯をしなくていい。
携帯の電源を切ってしまうのもいいかもしれません。
「なにかしなきゃ」と感じるのは、わたしたちに根強く埋め込まれた「have to」です。
何もしないでいると、何かしたくなってくるので、want toが出てくるまでゆっくりしているのもいいかなと思います。
ぜひ身体に意識を向けながらくつろぐ時間をつくっていただけると良いかなと思います。
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