美しいもの
テレビを持たないと、オリンピックをLIVEで見るのに手間がかかるので、4年に一回不便さを感じるのだなと思いながら過ごしています。
わたしは日本人なので、やはり日本人選手がメダルを取ると嬉しいです。感動します。
LIVEで見ることができることもあるし、後から映像を見ることもあります。
なんとも言葉にしづらいのですが、選手の瞳が、立ち姿が、心から美しいと思います。
どうしても、言葉という低い抽象度にすることは、抽象度を下げることになるので表現が難しいです。
本気で生きている人間からは、美しいものがにじみ出るのだなと、あらためて感じました。
初出場の選手の眼はキラキラしていますし、何回目かの選手の眼からはより深い力といいますか、「気」といいますか何とも言えないものを感じます。
姿だけで本当に感銘を受けます。
一人一人の選手の試合を見て、コーチとして学ぶことがたくさんあるのですが、なんとなく記事にしづらいなと感じています。
スポーツ選手としての命をかけている試合を、今は言葉というものに下げたくないなと思います。
言葉にできるときが来たときに、言葉にします。
ふと感じたのは、スポーツ選手はいつか引退するときが来るのですが、ゴールを持ちながら生きている人間は迷うことは少ないので、スポーツ選手としての役割を引退したとしても迷うことは少ないのかなと感じます。
おそらく、ふだんからゴール設定をしているはずなので、役割が変わってもゴールを変えて輝き続けるということかもしれないなと感じました。
続 般若心経
引き続いて般若心経の続編を書きます。
わたしには妹たちがいて、うち一人が般若心経を暗唱できるので、墓参りに行ったときには彼女がいることで墓参りが引き締まるようなところがあります。
ふと、彼女はなぜ般若心経を暗記していて、それはいつからだったかなと疑問に感じました。
妹は仏教の学校にいたわけではないので、わたしが暗唱できるほうがまだ理解できます。
確実に10年前には墓参り時の読経係になっていたので、かなり前かなと思い、聞いてみました。
11歳か12歳のときには暗唱できるようになっていたそうで、暗唱の理由は3つあって、「子供心にお化けが怖かった(のでお化け対策)」というのがひとつ、そして「唱えると仏さん(死者)が喜ぶと聞いて」というのがひとつ、最後の理由として「他の家に行ったときにも宗派問わず困らないから」というのが3つめの理由でした。
11歳か12歳という年齢と、3つ目の宗派問わずというのを聞いて、妹ながら、菩薩(悟りに向かって進む人のこと)なのかと思いました。
でも般若心経の意味はよく分かっていないようなので、菩薩ではありませんでした。
ただ、般若心経のマントラとしての機能を考えると、わたしの家庭において彼女の読経はかなり重要な役割を果たしています。
わたしも、意味を理解したうえで般若心経をアファメーションとして、いまいちど考えてみようと思います。
般若心経
苫米地英人著「超訳『般若心経』」を読んでいました。
わたしの出身高校は智辯和歌山なので宗教の授業があり、般若心経をたびたび耳にしていましたし読経していたように思います。
なので、高校の頃に聞いていた般若心経の音(声)を思い出し、懐かしさを感じました。
あらためて、不思議な部分がいっぱいである般若心経を、これまでの認識とは違う角度から見ることができました。
本の中にもあるように、般若心経は多くの人が知っていて多くの宗派で唱えられているにも関わらず、謎だらけです。
この謎だらけの般若心経を、この本の中で大胆な添削をしています。
本の中で「無」を「空」に、とことん添削しています。
見慣れ過ぎた「色即是空 空即是色」を「色即是無 無即是色」に添削している部分は、その通りなのですが、見慣れていたのもありびっくりしました。
でも、これを読むことで、確かに般若心経は空のテキストであることが見えてきます。
同時に、般若心経の意味を知ることで、般若心経をゴールに向かう際のアファメーションとして用いることができます。
心に残ったところを数か所引用したいと思います。
「では、『幸せ』とは何か。それは、『到達すべきゴールを設定し、それに向かうためのベストの選択をすること』です。ゴールに向かうこと自体が『幸せ』なのです。」
幸せとは、結果論ではなく、過程において感じるものであるということです。
「『空』を『emptiness』と訳したところから誤解が始まったという話は本文中で書きました。私はむしろ、『fullness』とでも訳したほうがぴったりくるのではないかと思っています。あふれんばかりの可能性をたたえ、しかもそれは宇宙と等価であるというのが『空』なのです。」
まさにそのとおりで、わたしも、空と虚無は正反対だと考えます。
わたしのブログは「空(クウ)」という名前にしておりますが、まさにfullnessを表現していきたいと考えています。
「イワンのばか」
『イワンのばか』はTolstoiの作品です。
宮崎駿監督の『本へのとびら』という著書の中の、『イワンのバカ』に対するコメントが印象に残りました。
宮崎駿監督のコメントを引用します。
「人はどのように生きるべきなのでしょう。子供のころ、この本を読んでぼくはとても心をうたれました。ばかのイワンのように生きられたらどんなにいいか。でも、それはとてもむずかしい。自分にはできそうにありません。そう思うのに、ぼくは今でもイワンのように生きられたらと、時々思います。」
イワンには兵隊のシモンと太っちょのタラス、そして耳と口が不自由なマルタという妹がいます。
シモンとタラスはそれぞれ欲があって、それでもイワンは何でもあげるので、仲良く暮らしています。悪魔がそれをみて、けんかさせようと考えてシモン・タラス・イワンにいろいろな意地悪をしかけます。
シモンとタラスは悪魔によってとっちめられてしまうのですが、イワンは何でもあげるし、困った人を助けるし、王様になっても働き続け、ついには悪魔が退散してしまいます。
宮崎駿監督の「人はどのように生きるべきなのでしょう。」という言葉が心に刺さります。
ばかのイワンは、一言で言うととことん利他的に生きているように感じます。
シモンは権力に対する欲、タラスは食欲をはじめとする物欲を表しているように感じ、悪魔はその欲につけこんで意地悪をしかけてきます。
ばかのイワンは欲がないので、悪魔が意地悪しても効果がありませんでした。
そして、ばかのイワンが王様になっている国の人々は、とても幸せそうです。
ばかのイワンの物語の背景とは違って、わたしたちには知識があって、資本主義のなかで生きています。
その中で、どうやって知識を使って楽しく生きるか、試されているような気がします。
少なくともシモンやタラスと同じようになってはいけないけれど、ばかのイワンのようにになるべきかというと、そうではないような気がします。
わたしたちそれぞれが、それぞれの生き方をもっていて、いろいろなバランスを絶妙にとりながら毎日を生きていく。
それそのものが答えのような気がします。
コーチングは楽しく生きるためのツールであり、上手く使うことでバランスがとりやすくなるのではないかなと思います。
Stay with me.
最近、アメリカのテレビドラマである「グレイズアナトミー」を毎日のように観ています。
「グレイズアナトミー」は医療ドラマであり、ヒューマンドラマでもあります。
その中で良く使われるフレーズで、最近お気に入りのものが、「Stay with me.」です。
このフレーズを使っているシーンの多くは、患者が意識を失いかけているときに「しっかりしろ!」という意味で用いています。
日本語で「しっかりしろ!」というのが、英語だと「Stay with me!」となるのは、わたしにはとても興味深く感じます。
逆に言うと、英語の「Stay with me!」を、日本語にするときに「しっかりしろ!」と訳していいのかなと疑問に感じている部分もあります。
「Stay with me.」とは要するに、「意識状態を自分と同じ状態に保ってね」という意味であり、さらには「同じ臨場感空間にいてね」ということだと考えます。
医師が患者に話しかける言葉でもあるかもしれないし、コーチがクライアントに話しかける言葉であるかもしれないし、究極的には人間同士であれば「Stay with me.」の発想はとても大切なのではないかなと思いました。
コーチはクライアントの抽象度やエフィカシーが上がるように導きますが、その場合のイメージはクライアントを引っ張り上げるようなイメージです。つまり、高低差があります。
「Stay with me.」は高低差がないように感じます。
わたしとしては引っ張り上げるイメージだけでなく、コーチとしてのみならず人として「Stay with me.」のイメージはとても重要だと感じています。
目の前の人の抽象度やエフィカシーがどのぐらいの高さであっても、もしくは時間軸のどこにいるとしても、自分がそこに行って「ただ一緒にいる」というのは、簡単なようで誰にでもできることではありません。
わたしはどんな状況であっても、「Stay with me.」と言えるように日々学び続けたいと思います。
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