わたしたちが選ぶ
人生は、わたしたちが自分自身で何を好んで何を選ぶか、それだけだと考えています。
わたしは、人間は何かしら洗脳を受けて、いろいろな程度の依存をしながら、生活していると、考えています。決して悪い意味ではなく、そんなものだと思います。
考えてみてください。
生まれた時点で(多くの場合は)両親がいて、両親が正しいと思っていることを学び、両親以外の人間から学び、自分の中に自分のセルフイメージが作られていきます。
生まれてからの成長過程では、何を信じるか、わたしたちは選ぶことはできません。選ぶことや拒否することを知らないからです。
両親や教育者の価値観を信じるしかありません。
でも成長するにつれ、気づく人は気づきます。
わたしたちは成長すると、これまでの価値観を忘れていない状態で、さらに変更を加えることができます。
今日から、今から、誰の判断基準も入れずに自分自身で、選びましょう。
簡単ではないかもしれませんが、ぜひ力強く自分の力で選んでください。
「幸福の計算式」パート2
最近、結婚について勤務先で話があがっていたのを聞いて、興味深いと感じたので記事にします。
結婚していて子供のいる方々の意見としては、「自由がない。自分の時間がない。夜に突然飲みに行こうと誘われても、帰ることを伝えた後なら変更できない。結婚しないで子供をもつのも良いのでは。」など、いろいろな話が出ていました。
その横で、結婚していない若い方が、「結婚したいですね。」と小さい声で言っていました。
ここで、いい加減しつこいのですが、ニック・ポータヴィー著「幸福の計算式」から引用します。
「心理経済学者たちによると、結婚に至るまでの数年間、人はとても幸せになるという確実な証拠がある。誰もが予想するとおり、結婚のプラスの影響がもっとも高まるのは結婚した年だ。だが、この『蜜月』はどのくらい続くのだろうか?5年?10年?それとも死がふたりを分かつまで?正解は2年だ。2年だって?そのとおり。それが、結婚によってもたらされた喜びに完全に慣れるまでにかかる平均時間だ。これは収入の増加に慣れるよりも早い。」
この後に、子どもをもつ喜びについて書かれていますが、今回この部分は省きます。
結婚によってもたらされた喜びに完全に慣れるまで2年、だそうです。
もしかしたら結婚されている人にとっては、「そんなものなのかも」という印象かもしれません。
わたしが言いたいのは、この結果についてではなく、人間は全くの同時期に別の状態を経験できないということです。
例えば、28歳から結婚している人がいるとして、その人が今33歳だとします。
上の結果によると、すでに結婚による喜びは完全に慣れが生じていて、いろいろな不満が生じているかもしれませんし、慣れが生じていても、幸せを感じながら日々を過ごしているかもしれません。
その人の28歳から33歳までの期間は人生で一度きりしかなく、独身でいる、という別の状態を経験することは不可能です。
万が一33歳に離婚したとしても、もはや28歳から33歳の期間ではありません。
逆に、33歳の独身の人がいるとして、「28歳のあの時に、結婚の決断をしていればなぁ」と考えることは、同様に無意味なことです。
まとめます。
わたしたちは、これまで、その時点でのベストの決断を積み重ねた結果、今、ここにいます。
これは疑いようのない事実であり、わたしたちはこれからもベストの決断をします。
ベターではなく、ベストです。
ベストの決断結果が今なので、疑問をもつ必要は全くありません。
コーチ養成講座修了
わたしには感謝すべき人々がたくさんいて、感謝の気持ちは言葉で表現すべきだと思ったので記事にします。
昨日、苫米地式コーチング認定コーチ養成講座を修了しました。
最近、自分で感じていることや経験していることを言語化することが、ときどき難しいです。言葉を発して誰かに伝えるという以前に、セルフトークの時点で言語化が難しいときがあります。
それが言語という「モノ」の限界だと思います。
ただ、言語は、わたしたち人間がコミュニケーションをする際に必須のツールで、考えて大切に使う必要のあるものだと考えています。
言葉は、非常に大切です。
昨日は修了式で、言語化が非常に難しいと感じながら、わたしが感じてるものを教室内にいらっしゃる方々に伝えることをトライしました。人前で話すのが特別苦手なわけではないのですが、あれほど伝えることが難しいと感じたのは、初めてであるような気がします。
また、他の方々から発せられている言葉から、言外のものを感じ、深く感銘を受けました。
あまり長い文章にするとその言葉に限定されていしまうので、シンプルに書きます。
一緒に学んだ皆さま、ありがとうございます。
授業のお手伝いをしてくださっていたお二方、ありがとうございます。
田島コーチ、ありがとうございます。
皆さま、ありがとうと同時に、これからもどうぞよろしくお願いします。
続 先生、とは
「先生」について続きを書きます。
うっかり忘れそうになりましたが、わたしは医師として働いているときは職場で「中西先生」と呼ばれることが多いです。
日本の医学教育は不思議で、大学を卒業して研修医になると同時に、「先生」と呼ばれます。
もっというと、医学部の学生、5年か6年あたりで臨床の見学をする期間があるのですが、この時点で「先生」と呼ばれます。まだ医師免許もない、ただの学生です。
研修医になって「先生」と呼ばれ始めたころは、自分は医師になったのだな、と思った記憶はありますが、なかなか違和感がありました。
医師になって4年目ぐらいの時、「先生と呼ばないでほしい」と、ある看護師に本気でお願いしたことがありますが、「だったら何て呼べばいいのよ!」と本気で怒られた記憶があります。
ため口で怒れるぐらいの仲ですから、名前でいいし、ニックネームでもいいし、なんでもいいわけです。
そもそもある限られた職種に対して差別用語を使う必要はないはずです。
わたしは医師に対して、「日本における礼儀」として「先生」と呼びますが、自分の中では礼儀正しい(とされる)ニックネームのように考えています。
自分がもし、完全に儒教文化にどっぷり浸かっていたら、わたしはここでこの記事を書いていないのだろうな、と思います。
先生、とは
「先生」という言葉の危険性について、確認したいと思います。
日本では、さまざまな教師、政治家、医師、弁護士、作家などに対して 「先生」と呼ぶのが常識的かつ礼儀正しいこととして教えられています。
なんの疑問を持つことなく、「先生」という言葉を使っていると思います。
苫米地英人博士の著書の中にも書かれていますが、「先生」は儒教からきている、差別を生み出す言葉です。
わたし自身、中学生のときに、「先生、は先に生まれると書き、先に生まれた人を敬うように」と「先生」から学んだ気がします。
ここで、疑問を抱いていただきたいです。
…それは、本当なのか?
…先に生まれたから、敬うのか?
…「先生」はなぜ偉いのか?
…本当に偉いのか?
わたしは、違うと思います。
わたしは人間は平等に尊いと思います。
「先生」という、汎用性の高い差別を生む単語は、欧米には存在しないような気がします。
みなさんによく考えていただければと思います。
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