依存について
依存について考えます。
当然のことですが、人間はお互いに依存しながら生きています。
現時点でのわたしが依存について考えていることを記述しようと思います。
ここでの依存は、宇宙の「縁起」における関係性のことではなく、人間同士の依存関係について考えます。
依存関係は浅い依存から深い依存まで程度は様々で、かつその深度は変動するため、どこから病的か線引きするのはなかなか難しいと思います。
病的な依存のひとつの考え方として、「共依存」というものがあります。
「共依存」とは、簡単に言うと完全に病的な依存関係です。
例えば、アルコール依存者の夫婦関係や親子関係が典型例です。
アルコール依存者であるパートナーから、殴られたり蹴られたりしても、「あの人には自分がいなきゃダメなんだ」と感じて殴られ続けます。
そして彼らは、そういった関係に安堵や喜びを感じます。
アルコール依存の親をもつ子どもは、「親には自分がいなきゃダメなんだ」という病的な認識をします。
子どもは、ある成長過程まで親に守られるべきであり、親が暴力(肉体的にしろ精神的にしろ)をふるう対象ではありません。
アルコール依存者の周囲の関係性は「共依存」の典型例で、共依存の家庭で育った子どもは、大人になっても共依存の関係を求める傾向があるとされています。
求めているわけではなくても、家を出ても気付いたら同じような状況にいることがある、と言います。
要は、アルコール依存の家庭では、「共依存」に誰かが気付いてその連鎖を断たないと、世代が変わっても永遠に続く可能性があります。
これが病的な依存の典型例のひとつだと思います。
わたしがいま依存について考えているのは、アルコール依存について書きたいのではなく、コーチングに関連させて考えています。
わたしは、コーチングにおいて、健全な依存は必要だと思います。必要というよりも、健全な依存が存在して当然だと思います。
人間は誰しも、特に依存を必要とするときがあるからです。
少し重要なことを書きます。
人間にはときに健全かつ深い依存が必要である。ただしコーチングにおいては、一定期間のコーチングが終わる頃には、クライアントが一人で歩けるように導くのがProfessionalだと考えます。
もしもコーチがクライアントに対して自分に依存させないように努力しなければならないのならば、コーチとしてそれが限界なのではないかと思います。
また、本物の優しさのあるコーチでないと、そのとき必要である依存を受け止めることができないのではないかとも考えています。
わたしは、常に受け止めることができるコーチでありたいなと思います。
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