結婚ー③夫婦が互いのコーチでいられるかという問題
これまで結婚というテーマで、結婚観、婚活について書きました。
今回は「夫婦が互いのコーチでいられるかどうか」について考えます。
このテーマについて考え続けた結果の、現時点でのわたしの意見を書きたいと思います。
結論を先に書くと、わたしは、難しいと考えます。
夫婦が互いのコーチでいられる可能性としては、今の日本では1%未満ではないかと思います。
難しいと考える理由として、3つ挙げます。
①夫婦のどちらかだけがコーチングに興味を持っている可能性が高い。
②夫婦は毎日一緒に生活をする関係であり、しかも数十年にわたる関係である。
③コーチングそのものの性質。
これらのうち、一番大きい理由としては①だと考えます。
日本で夫婦同時にコーチングに興味を持ち、深く学んでいる、もしくは学ぼうとしている場合というのは、今の日本では極めて稀である気がします。
この、夫婦ともにコーチングに興味があるという稀なパターンに当てはまる場合は、夫婦同士のコーチングは上手くいく可能性があります。もしくは、コーチングに興味があるのが片方であったとしても、もう片方がコーチのような素質をもっている人間である場合も、上手くいく可能性があります。
「コーチのような素質をもっている人間」というのは、分かる方には分かると思いますが、コーチングには全く興味がないにも関わらず、コーチのような人が非常に稀にいらっしゃいます。とても少ないですが、わたしの親友にも一人います。
話を戻します。
夫婦のうち片方のみがコーチングに興味を持っていると何が起こるかというと、相手にもコーチングを理解してほしいという欲求が生まれます。
わたしもコーチングを学び始めた当初は、周りの人たちに知ってもらいたいと感じましたが、人間には生き方を選択する権利があります。
そして、コンフォートゾーンから出ることなく生きていくというのも一つの選択です。
大切な人たちにコーチングを理解してもらいたいと思って一石を投じてみるのは良いと思います。ただ、相手に響かなかった場合に、どうしても理解を得たいと頑張ってしまうと、相手の選択を否定することにつながります。
相手の選択を否定するということは、そもそもコーチの役割から大きく外れてきます。
以上が①の説明です。
②については文面そのままで、例えば、1~2週間に1回しか会わない関係であれば良いかもしれないのですが、一緒に数十年生活をしていると色々なことが起きます。
実際は夫婦それぞれ別々の時期に、生き方に大きく影響を与える出来事が起きることが予測されます。
そして、それらの出来事の中には、互いのコンフォートゾーンを揺らがすようなことも出てきます。
相手の変化が自分のコンフォートゾーンに影響する場合に、それでも常にコーチのような意識でいられるかというと、どのくらいの人がそれに耐えられるだろうかと疑問に感じます。
反射的に自分のコンフォートゾーンを守ろうとするのが普通の反応であり、そうなるともはや相手の変化に耐えられず、コーチングは難しくなります。
③のコーチングの性質については、ラポールというものが大きく関わってくると考えます。
コーチングにおいては通常はラポールが生まれ、その中でも特に「ハイパーラポール」という少し特殊な信頼関係が生まれます。
ハイパーラポールの方向性は定義上一方向であるので、夫婦間で双方向に生じることが考えにくいことを考慮し、ここではラポールについて考えます。
ハイパーラポールが定義上考えられない時点で、難しいと言わざるを得ないのですが、話を進めます。
夫婦のラポールを考える場合、一緒に生活し、臨場感空間を共有しているからといってラポールが生まれるわけではありません。
毎日顔を合わせることで、ほんの少しの不満からほつれが出始め、ラポールが簡単に崩れる可能性があります。
夫婦間でラポールが長期間にわたり維持できる可能性がどのくらいあるのか考えると、これはわたしの印象にすぎませんが、一定の長期間を超えて「偽りのない」ラポールを維持できた夫婦は、その後も維持できるのかもしれないなと感じます。
以上、①~③の要素を考慮すると、現時点の日本においては、可能性として1%未満が妥当かなという結論になりました。
もちろん、夫婦同士でお互いの未来を話し合いながら生きていくことができれば理想的です。
ただ、わたしの意見としては、「相手自身の選択を最重要のものとし、自分の欲求を押し付けない」ことはとても大切だと思います。
なお、アファメーションに組み込んで強く信じれば・・・とよぎった方のために念のため書きますが、アファメーションは一人称です。
他人に変わってもらいたいという欲求は煩悩であり、アファメーション作成のルールから大きく外れます。
最後になりますが、「子供」については、夫婦とは全く別次元の問題であり、次の機会に考えてみようと思います。
認識の違い
つい数日前に、引越しをしました。
そして引っ越しの翌日、鍵の引渡しのため前の部屋に行ってきました。
不思議な感覚を覚えたので、お伝えしようとトライしてみます。
引越し当日、つまり鍵の引渡しの前日まで、どこに行くにしても前の部屋を拠点として考えていました。
当然のことではあるのですが、意識に上るのは稀で、多くの場合は無意識のうちにそのように行動している気がします。
みなさんもおそらく、家から何分とか、家からの方角とか、なんとなく感覚で把握しながら生活されてるのではないかと思います。
鍵の引渡しの帰り道に、以前の最寄駅であった駅の、構内の見え方が異なる感覚を覚えました。
これまでの最寄り駅のホームから引っ越し先の最寄り駅に向かって電車に乗る時、これまでは、“部屋から遠い方向の車両”だと乗り継ぎがスムーズにできる、といった感覚でとらえていたのですが、その方角は、もはや、引越し先の部屋に近い方角なわけです。
「あれ?駅のホームがなんだか違って見える…」
と、一瞬、見慣れた駅ではないところにいるような感じがして、駅のホームと方向を、表示を見て改めて確認しました。
それまでは迷ったことも考えたこともなく、そして駅が違うふうに見えたこともありませんでした。
おそらく、“前の部屋を拠点とした認識”と、“引越し先の部屋を拠点とした認識”が、異なることにより起きた現象だと考えています。
「見ているものは同じで変わらない。
違うのは、自分の認識のみ。」
ということになります。
コーチングでは私たちの内部が外部を決めるという表現をしますが、理解はできても実際のところなかなか体感する機会はありません。
わたしは、「なるほど」と思って、電車に乗りました。
わたしたちの内部表現によって外部というものは変化します。
もしも体感として感じる機会がありましたら、しっかり意識に上げて認識していただければと思います。
結婚ー②婚活
先日は結婚観について書きました。
今回は婚活についてです。
「婚活」というのは、当然ながら「婚活ビジネス」というビジネスにすぎません。
本気で心から「結婚で女性を幸せにしたい!」と考えながら婚活ビジネスに従事している人がいるとしたら、その熱い気持ちは妄想だと言わざるを得ない気がします。
「結婚式終了までの期間だけ短期間だけ女性を幸せにしたい!」なら理解できるような気がします。
まずは女性の婚活について、婚活コンサルタントの方々が発信している情報を読んでいました。それぞれに対しわたしの考えを記載してみます。
「自然な出会いなど絶対にありません」
➡︎あります。
「婚活にもさまざまな形の「成果」があるのだと思ってください」
➡︎自分のメリットとしての「成果」が欲しいのならば、婚活を介在させる必要はない気がします。
「婚活は、なにより自分磨きのツールだと考えてください」
➡︎同上
「そうやって自分を磨いていけば、それに見合う“ランクアップ”した出会いも生まれます」
➡︎そもそも“ランク”とは何でしょうか。相手の年収や肩書が“ランク”ならば、結婚というものを根本的に勘違いしている可能性があります。
「セミナー受講者の中には、40代半ばで彼氏をゲットした人もいます」
➡︎40代でも50代でも60代でも70代でもそれ以上でも魅力的な人は魅力的で、そういう人たちは自らがやりたい事やすべき事をしています。歳をとると彼氏や彼女ができにくくなるという考え方は、違うような気がします。
「人間的に合わないというのではない限り、男性との関係は“グレー”にしておく、のが鉄則です」
➡︎正直言って、グレーな関係だらけの人間に、たいした魅力はないと思います。
以上、主観的なコメントをつけましたが、コンサルタントの言葉は、まさにビジネスという印象を受けますね。
日本中の人たちが婚活をビジネスとして見ていると良いのですが、婚活をビジネスとしてではなく本気で幸せになるための手段だと思っている人たちがたくさんいる可能性を考えると、危険な感じがします。
男性の婚活についても調べてみたのですが、女性と比較して情報がかなり少ない印象を受けました。
男性の場合は30代後半、40代になって、「なんとなく寂しくて、結婚を考えようかな」と考え始めて、しかも「折角なら20代の可愛い子がいいな」と考えて婚活ビジネスにアクセスしているような印象を受けます。
儒教文化の色濃い日本において、女性と男性では、結婚に対して求めているものが異なるのだろうなと思います。
婚活はさておき、資本主義社会における多くのモノやサービスは、誰かが利益を得るために世に出されたものであり、そのことを常に忘れずに、うまく利用することが必要だと感じます。
そのためには、一つ一つのモノやサービスの「本質」を見ようとする習慣が大切だと思います。
自由への扉
日本で若者が未来を考えるときに、どうすればwant toのことを選択できうるのか、考えていました。
たしか自分が高校生のとき、自分に職業についての知識があまりに少ないことに問題を感じ、職業の辞典のような本を買った記憶があります。
その本には、各職業の内容や、その職業に就く方法、試験の合格率などが書かれていました。
そのころテレビで、資格取得についてのことをよく取り上げていたのも影響しているかもしれません。
その本を読んで医学部に決めたのではありませんが、日本の教育システムに問題があるために職業の本を買わざるを得なかったのかもしれないと感じています。
一般的に日本の教育は、want toのことを見つけなさい、とは決して教えてくれません。
高校は、○○大学○○人入学という進学率をゴールにしている部分があり、大学は大学で、就学率や公務員試験合格率などをゴールにしている部分があります。
教育機関のゴールが「率」で表されるものである以上、人びとを過去に縛り付けることで奴隷のような生き方しか選択できない人たちを増やすことになります。
逆に、そうさせることで利益を得ている人たちがいて、彼らにとっては奴隷を増やすことが目的である側面があります。
確かに、敷かれたレールを生きるのは考える必要がないという点で楽なのかもしれません。
ただ、本気で人生を楽しむことを決めたなら、奴隷のような生き方をやめる必要が出てきます。
わたしたちが今、どこかの組織に属していているとしても、その中で自由になることは可能だと思います。
その第一歩は、「今の自分が置かれている状況」を徹底的に意識に上げることだと考えます。
漫然と組織の中にいると、コンフォートゾーンから抜け出ることが難しくなります。
毎瞬間、自分はどれくらい自由か考え意識に上げることで、さらなる自由への扉が見えてくると思います。
世界を変えるのは、たいてい、異端児です。
生き方に正解はなく、恐れるに値するものは何もありません。
片付けと過去
ここ1週間ほどの間に書いて投稿していなかった記事を、順次投稿します。
現部屋の片付けがラストスパートに入りました。
わたしは勝ち負けをあまり好みませんが、半ば過去の自分に勝つべく、部屋にあるモノと対峙しています。
モノを片付けていると、嫌でも過去の自分と向き合う必要が出てきて、過去の自分が目の前にいるような感覚の時があります。
あるモノを捨てるかどうか決める際には、完全に未来に立ち、未来の自分にとってそれが必要かどうかを決めるようにしています。つまり、未来のコンフォートゾーンにおいて、そのモノが存在するのかどうかを見ています。
そうなってくると、容易に予想できますが、実はほとんどが過去のモノであり、未来においてそれらは必要ないのではないかと思えてきます。
未来からの視点を持つと同時に、一つ一つのモノたちにとって、どうあるのがベターなのか考えながら作業しています。
わたしは、使っていないモノがあれば、使ってくれる人に譲る方がモノが生きると思います。
できるだけ全てのモノが生きることを考えると、随分いろいろなモノが次の持ち主のところへ行きました。
いま部屋にある持ち物の中で一番古いものを考えてみると、19歳のころに親に買ってもらったスケート靴かなと思います。
アイスホッケーをしていた時期が少しだけあり、防具はかなり前に現役選手にゆずりました。
スケート靴は、スニーカーなどよりもはるかに各個人の足型になるので人に譲れるものでもなく、ずっと持っています。
アイスホッケーを始めたとき、妹の一人と一緒に始めたのですが、防具一式とスケート靴は決して安いものではありません。
わたしの実家は一般家庭で、子供を甘やかせる余裕は全くなかったはずなのに、何も言わず大阪のアイスホッケー道具のお店に連れて行ってくれた親は本当に凄いなと、ずっと感謝しています。
なんとなくわたしのスケート靴は良い気をまとっており、対峙できないので、持っていようと思います。
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