眺めの良いエスカレーター
ときどき使う駅に、外の景色が良く見えるエスカレーターがあります。
その駅の改札は3階なので、いつも地上に降りるエスカレーターを使います。
写真はそのエスカレーターです。
左側は壁で、右側には景色が見ることができます。
不思議に感じていたことがあるので記事に書こうと思いました。
このエスカレーターのステップ幅は二人用なのですが、なぜかいつも異常に狭く感じます。
なぜこうも狭く感じるのだろうと思い、二人用のエスカレーターの幅について少し調べました。
二人用に関して言うと、手すり等を入れた全体幅は、メーカーや型により多少変わるようですが、実際に歩行するステップ部分の幅はどのエスカレーターもほとんど変わらないようです。
同じステップ幅のエスカレーターでも、屋内だと違和感がないのに、屋外になると狭く感じる。
このエスカレーターの設置場所は、屋外は屋外でも、見晴らしが良くてとても気持ちが良いところに設置されています。
なぜだろうと考えているうちにふと、エスカレーターに乗るときの自分の視線が異なることに気付きました。
このエスカレーターに乗るとき、わたしは、気持ちが良いので空を眺めたり遠くの景色を見たりしています。
「ゴール設定をしたときに、見える景色に似ているかもしれない」そう思いました。
コーチングでは、ゴール設定をします。
そして基本原則として、ゴールは、“現状の外側”に設定します。
“現状の外側”のゴールというのは、たった今達成できるものでもなければ、現状のまま未来を迎えた場合も達成し得ないもの、を指します。
“現状の外側”にゴールを設定して、ゴール側の臨場感を上げていくにつれ、“現状”は窮屈なものになっていきます。
コンフォートゾーンが変わるからですね。
エスカレーターが窮屈に感じた感覚は、見える景色があまりに気持ち良くて、現状を飛び出したくなる感覚によく似ているような気がしました。
「わたしったら、なんて狭いところにいるのだろう。宇宙は果てしなく広いのに。」
過去への執着をやめて、わたしたち自身が本当に心から欲するものを直視しようとする。
そうすることで初めて、わたしたち自身の力で立ち上がり、本当の人生を歩むスタートラインに立つことができるのかなと思います。
親を超える、ことの意味
コーチングの話でときどき、「親を超えなさい」と聞くことがあります。
どの分野でもいいから、一つの分野で親を超えてみなさい、と。
わたしたちは生まれてからこれまで、ある意味、洗脳を受けてきています。
世界中どこで生まれたとしても同じなのですが、最も強い洗脳力を持つのが親です。
わたしたちにとっての洗脳者であり、かつ、ほとんどの場合においてドリームキラーである親を超えなさい、ということです。
わたしは疑問に感じるのですが、みなさんはどのように感じるでしょうか。
疑問に感じる気持ちの中心に何があるかというと、コーチングの大原則の一つとして存在する「比較しない」という考えがあります。
「比較しない」ことがコーチングの大原則の一つなので、「ナンバーワン」や「〇〇トップ」などの表現を使っているコーチがいたら、コーチングを間違って理解している可能性があるということになります。
誰かを超えるという考えの中には、「比較」が存在します。
親を比較対象にすることは、わたしにはできません。
収入も、学歴も、肩書も、正直なところどうでも良いです。
わたしたちはわたしたち、親は親、別の人間です。
親のみならず誰であっても比較対象にする必要はなく、比較しないことで初めて本物のゴールに近づくことができます。
比較対象が存在しているあいだは、本物のゴールが見つかりにくいのではないかと思います。
では、「親を超える」ことの意味を、今一度わたしなりに解釈しようと思います。
良くも悪くも、親による教育という名の洗脳がなければ、今のわたしたちは存在していません。
そして今、わたしたちは、親は善意のドリームキラーになりやすいもので、日本では奴隷でいることを良しとする文化があるということを理解しています。
それは親だけの責任で済ませられる問題ではありません。
仕掛けている何ものかが存在しています。
このことを心から理解すれば、親のどんな言動に対しても、愛情が湧くのではないかと思います。
この、親に対する愛情が、言いかえると、「親を超える」の真意ではないかなと思います。
そこには比較は存在しません。
認知的不協和を生じさせる
“認知的不協和”は社会心理学用語である“cognitive dissonance”の和訳で、レオン・フェスティンガーが提唱した理論です。
一人の人間が、二つの矛盾した認知を持った場合、ストレスや不快感が生じます。
その結果人間は、そのストレスを解消もしくは軽減しようとして、行動したり認知を変化させます。
“認知的不協和”は決して特別なものではなく、日常的によく起きています。
よく例で挙げられるものがいくつかあるのですが、今回はイソップ寓話の『狐と葡萄』を例に挙げます。
物語のあらすじを書きます。
狐が、木の枝を這っている葡萄の蔓から、熟したブドウが垂れているのを見つけます。
狐はその葡萄が食べたくて食べたくて、飛び上がったり助走をつけて飛んだりして、何度も何度も取ろうとします。
でも、どうやっても葡萄を取ることができませんでした。
狐は「おれは何て馬鹿なんだ。あんな葡萄、値打ちもない酸っぱい葡萄なのに。」と言いながら去っていきます。
この物語の場合、狐の「葡萄を取りたい」という欲求と、「葡萄が手に入らない」という事実は矛盾し、認知的不協和が生じています。
この認知的不協和を解消するために、狐は「葡萄は酸っぱくて値打ちがない」というふうに葡萄に対する認知を変えています。
「あの葡萄は酸っぱいから取らない」ということですね。
この例の場合は合理化に当たりますが、コーチングでは認知的不協和の解決方法としてネガティブな合理化を目的としていません。
コーチングにおいて、「現実のリアリティ」と「ゴールのリアリティ」は必ず矛盾し、認知的不協和が生じます。
この、コーチングにおける認知的不協和状態において、ネガティブな合理化(認知の変更)をするのは簡単にできることです。
例えば、ゴールに向かわない理由として、リスクを挙げるときりがないですよね。
コーチングでは、シンプルに「ゴールのリアリティ」を高めて、ゴールへ向かうようにコーチがお手伝いします。
とてもシンプルです。
言い方を変えると、コーチングは認知的不協和を次々と生じさせることで、みなさんがゴールに近づくことができるように働きかけるものと言えます。
また、認知的不協和が全く生じていない状態というのは、「現状の内」ということになるので、ゴールを設定しなおす必要があるということです。
コーチングの過程で、認知的不協和は、当然生じるものです。
認知的不協和によるストレスや不快感を、「人間ってすごいな」と、逆に面白く感じていただければいいなと思います。
医師家系
わたしはあまりFacebookを見ていないのですが、Facebookでたまたま目にした、医師家系に生まれた友人の投稿が心に刺さりました。
友人は医師の道を選択していません。
ご本人の了承をいただいたので、引用させていただきます。
心理学の門を叩き、早一年
怒涛の一年であった一番の気付きは
病院で弱音を吐けない自分だこれは地方の医療従事者の
家庭ならではの悩みだと思う
小さい頃から診てもらう先生は
父親の同僚や友人のお父さん父親のテリトリーなので
家庭や本当の悩みが言えない医師には守秘義務がある
子供が言わないでと言えば
親にはフィードバックされない家庭内守秘義務だらけで
小さな風邪をこじらせて
大きな病気になっていた
病院でくらい泣いてもいい
当たり前のことができなかった
そんな
自分の生きにくさに気付いたら朝起きれるようになった
新聞を読み
掃除をする
相変わらず掃除は苦手だ
これも少しずつしよう
「ごめんなさい」より
「ありがとう」が増えてきた
悩む暇ありゃヨガ、縄跳び
何故か睫毛がのびてきた
体温計を37度2分ちょうどにこする
裏技を教えた祖母の口癖は「生きたい場所で生きなさい
それが日本でなくても構わない」「夢は自分で叶えるもの
どうか自由に生きて夢を叶えてください」自由に生きていく道をひいてくれた
祖父母、そして両親になにより感謝して
その言葉も伝えようきっとこれからも
いろんなことが起こるでしょうでも、人生あっという間
楽しく明るく生きたいものです
引用は以上です。
本当に、素敵だなぁと思い、何度も読みました。
友人が、たくさんの壁を乗り越えて、今穏やかにいてくれることが嬉しいです。
「家庭内守秘義務だらけで
小さな風邪をこじらせて
大きな病気になっていた」
わたしの親は医師ではありませんが、わたしにも経験があります。
“大きな病気”と表現されるものを乗り越えて、今ここにいます。
みなさんも、もしかしたら、経験があるのではないかなと、思います。
ドリームキラーという単語をあまり出したくはありませんが、親や家族は、心からの善意でドリームキラーになります。
しかも、最強のドリームキラーです。
気付いたころには、わたしたちの夢はすでに壊れていて、親や家族が納得するような選択をしていることがあります。
でも、幸運にもそのことに気付いたのであれば、そこから、人生の主導権を自分に戻すことができます。
「生きたい場所で生きなさい
それが日本でなくても構わない」
わたしもそう思います。
外の世界へ出るには、自身の力が必要です。
そして、もしも強力なドリームサポーターが必要であれば、コーチがいます。
優秀なRAS
先日知人が、朝の通勤時にあった面白い出来事を聞かせてくれました。
朝とても急いでいて、間違えて、いつもとは逆方向のバスに飛び乗ったそうです。
でも結局、少し廻り道にはなったものの、いつもと同じ時刻に勤務先に到着したそうです。
逆方向のバスに乗って、同じ時間で同じ場所に着く。
面白いなと思います。
脳は隙あらば楽をするものなので、通勤路は、毎回考えなくても気が付けば同じ通勤路を辿っているものだと思います。
でも不意に違う道を通ったら、これまで見なかった違う光景が目に入ってきます。
脳にとってサボることは必要不可欠であり、そこにRASの優秀さがあるので、何が良いとか悪いということはありません。
RAS(reticular activating system)は、網様体賦活系と呼ばれるものです。
苫米地英人氏の著書より引用します。
「RASというのは、人の脳の活性化ネットワークのことで、毎秒毎秒五感に入ってくる大量のメッセージの中のどれを意識するかを決定する役割を果たすものです。
いわば私たちが受け取る情報のフィルターとして、情報の取捨選択を行っています。
スコトーマとは、盲点のことです。
私たちは身の周りの情報をすべて理解しているかのように感じていますが、実はスコトーマによって隠されていることがたくさんあります。」「なぜ私たちにスコトーマがあるかといえば、それはRASがあるからなのです。私たちの脳がRASによるフィルターを通して現実世界を認識している限り、その認識にはスコトーマがあり、現実世界をそのまま認識している人は1人もいないのです。だから、目の前にあるものが見えなかったり、ないものが見えたり、ということが起こります。」
「つまり、人はそれぞれスコトーマとRASを持ち、その結果として同じ物理世界を見ている他人は誰もいないということなのです。」
〈参考文献〉苫米地英人『コンフォートゾーンの作り方』フォレスト出版
知人の話を聞いてRASのことを考えていると、わたしが研修医だったころの経験を思い出しました。
研修医のころにお世話になった医師の方々の中で、わたしには外見が見分けづらいお二人がいらっしゃいました。
専門とする科が異なる方々で、今思えば全く似ていません。
でも、当時のわたしは第一印象の時点で見分けがつかなくなり、「『認識』って不思議だな」と感じた記憶があります。
RASの悪戯によるものですね。
背格好が似ている気がするので、わたしの人の認識においては、顔の特徴よりもその人の雰囲気や姿形が重要になっているのかもしれません。
見分けがつかないのは困るため、当時は「鼻の形」で見分けていました。
今、全く似ていないと分かるのは、ゼロから認識し直したのではなく、じっくり違いを確認したからだと思います。
人間は一度見た対象を、ゼロから認識し直すことは難しいです。
ここで思うのは、わたしたちは優秀なRASに上手く働いてもらう必要がある、ということです。
RASの働きがスコトーマ(盲点)を作ることだとすれば、わたしたちは顕在意識によって、何を見て何を見ないか、決めることができます。
RASの持ち主はわたしたち自身ですが、ともすると、大切な見るべき対象がスコトーマに入って見えなくなります。
重要なのはゴール設定であり、適切なゴール設定により、目に入るものがゴールにとって必要なものに変わってきます。
RASの強力な力を借りましょう。
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