The point is…
前にも書いたことがありますが、『Grey’s Anatomy』というアメリカのテレビドラマをたまに観ます。
『Gray’s Anatomy』という医学書が実際にあり、テレビドラマではMeredith Greyが主人公なので『Grey’s Anatomy』という名前が付けられています。
とても魅力的な方々がたくさん出演されていて、ドラマの内容も面白いです。
最近はシーズン11を観ており、その中で印象に残ったシーンがあったので、記事にしようと思います。
主人公はMeredith Greyですが、その時々でスポットライトの当たる人物が変わります。
最近見ていた場面は、胎児外科の権威である女性医師が、脳腫瘍を患っている場面でした。
その脳腫瘍は手術で取るのが難しい場所に存在しており、何人もの脳外科医に治療できないと諦められていました。
女性医師はすでに治療を諦めており、自分の命の続く限り、Arizona Robbinsという医師を自らの後継者として育成しようと力を入れます。
治療を完全に諦めていたところに、同じ病院内の脳外科医が「わたしなら手術で取れる」と手術を勧めます。
最初は「“希望”を持ってしまうことが癌の患者にとって最も大きな問題だ。“希望”を持たされては全て打ち砕かれた。私は治療を受けない。」と治療を拒みます。
でも、少しずつ希望を持ち始め、手術の日が来ます。
10時間を超える長時間の手術が終わり、何日も何日も、女性医師の目が覚めない状態が続きます。
そしてついに、目覚める瞬間が来ます。
気管内挿管のチューブを抜管した瞬間、「Mummy,mummy,…」と子供のように言い始めたので、わたしもドキッとしました。
脳の機能に問題が生じたのかと思ったからです。
でも、「Mummy」は彼女の冗談で、「わたしは大丈夫よ。でも、失明したわね。」と明るく言葉を発します。
視神経の近くの腫瘍だったため、腫瘍は完全に取れたものの、失明したのです。
外科医にとって、目が見えなくなることは外科医としての生活が完全に終わることを意味します。
Arizona Robbinsがショックを受けている横で、彼女は明るくこう言います。
「The point is… I am alive.」
このフレーズがとても印象に残って、しばらく頭から離れませんでした。
重要なことは、今生きているということ、です。
たとえ人生がどんなに辛い状況であったとしても、“生きている”という事実があります。
生きているという事実があれば、それで良いということです。
死が怖いとか不幸だとか、そういうことを言っているのではありません。
人間にとって、死は遅かれ早かれ100%おとずれるので、死と比較することはナンセンスです。
何かとの比較なしの、ただ、“生きていること”の大切さ。
The point is… I am alive.
わたしたちは、生きています。
それぞれのガンダム
『機動戦士ガンダム』はとても奥が深くて、記事の中で触れるのは難しいなと思いながら書いています。
写真の、なぜか色違いのリュックを背負っている彼らにガンダムを薦めていただき、観始めました。
今は、機動戦士ガンダムの劇場版三部作を観終わり、Zの劇場版を観始めました。
ガンダムの内容に関する記事は、今のわたしには書けそうにないなと思います。
グレーのリュックの友人に、「みんながそれぞれのガンダムに乗ってるんだ」と言われて、「あ、たしかに」と思いました。
戦争をしているという意味ではなくて、それぞれが専用のガンダムに乗っていて、わたしたちそれぞれがヒーローorヒロインだという意味です。
まさにその通りで、わたしたちがどのようなガンダムに乗るか、そしてガンダムに乗ってどのようなことをするかはわたしたち自身に委ねられています。
黒いリュックの友人に、「ガンダムのストーリーの中では戦争をしているけれど、それぞれが正しいとする教義や信念を持っていて、誰かが良いとか悪いという話ではないんだ」と言われ、「...たしかに」と思いました。
わたしたちはなにか一つの出来事があった際に、往々にして自分が視点を置きやすい見方で見てしまうので、違う見方はスコトーマ(盲点)になることがあります。
一方向のみで物事を見るのはラクであり、複数の見方をしようとするのは抽象度を上げるためのエネルギーが必要になります。
わたしが以前、ガンダムを観ようとしたときに、それぞれの登場人物の立場がよく分からなくてもどかしく感じたのを覚えています。
要するに、そのときわたしは、ラクに観るために”固定した見方“をしたかったのかもしれないなと思いました。
みなさんもお分かりのように、固定した見方ほどラクで危ないものはありません。
固定した見方が習慣になると、何ものかに操作される可能性が高まるような気がします。
ある一つの考え方をしているとき、180度異なる見方や、次元そのものが違う見方をするように習慣付けると、良いのかもしれないなと思います。
いろいろな見方をするのに慣れると、それほど難しいことではないと思います。
「風の谷のナウシカ」-感情
かなり久しぶりに「風の谷のナウシカ」を観ました。
印象に残ったことの中で、今回は「感情」について書こうと思います。
わたしは、自分はあまり感情の起伏がないと感じています。
周りから見たわたしがどのように見えているのかは分かりません。
自分でそういう風に感じているので、感情が湧いたらその感情を大切にすれば良いのだと考えていました。
しかし、はっとしたのは、トルメキア軍がナウシカの父親であるジルを殺した時の、ナウシカの反応でした。
そのときのナウシカは、「怒り」というものを全身で表しています。
これほどのナウシカの怒りを、他の場面で見ることができません。
父親を殺された怒りに対し、感情を生理現象として味わう、という説明をするのは不可能です。
わたしも自分の大切な家族を殺されたら、ナウシカと同じ反応をすると思います。
この場面を見た時、自分が何か忘れていたのか、忘れようとしていたのか、とにかく思い出す必要があると感じました。
また、感情というテーマから少し外れますが、この場面で、ユパが小さな声でナウシカに言った言葉が印象に残っています。
「ナウシカ。落ち着けナウシカ。いま戦えば、谷の者は皆殺しになろう。生き延びて、機会を待つのだ。」
「生き延びて、機会を待つのだ。」-実際にわたしたちが生きて行く上で、大切なことだとわたしは感じています。
あらゆることには‟機”があり、わたしたちはその瞬間を見極める必要があります。
このユパの言葉は、とても深いです。
感情というテーマに戻りますが、他の場面でも、ナウシカの感情表現が何かを思い出せと言ってくれているような印象を受けました。
ジルに再開した時の喜びや、腐海の底で嬉しくて涙を流すなど、人間の感情とは本来は味わうほど余裕がないもので、溢れるほど湧き上がってくるものだと、今のわたしはそう思います。
わたしは、自分が少しぼんやりしてしまっていたのではないかと思いました。
わたしたちは今の日本において、ぼんやりしているとトルメキア王女クシャナのようになってしまう可能性があります。
それはそれで選択かもしれませんが、クシャナは戦争を起こし、人間を殺します。
少なくともわたしとわたしの記事を読んでくださるみなさんは、それを選択しないのではないかと思います。
人間の感情、それは人間にとって宝物です。
『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』
『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』(Batman v Superman: Dawn of Justice)を観ました。
Ben Affleck(バットマン)、Henry William Dalgliesh Cavill(スーパーマン、クラーク・ケント)は素敵としか言いようがなく、スパーマンの恋人役であるAmy Lou Adams(ロイス・レイン)もなんとも魅力的です。この映画で、Henry William Dalgliesh Cavillのファンになりました。
他に注目すべき登場人物として、レックス・ルーサーJr.がいます。
わたしはまだこの映画のストーリーの理解が不足しているのでまた観たいと思っているのですが、今回感じたことを一つの視点から書こうと思います。
あくまでもわたしの視点のうち、一つの視点に限って書きます。
わたしはこの映画で、ヒーローが「善(正義)と悪」の間を行ったり来たり彷徨って描かれているように感じました。
スーパーマンは基本的に「善(正義)」にいるのですが、葛藤しているように見えます。
バットマンは、善と悪の間をまさに彷徨っているように見えます。
レックス・ルーサーJr.は今回の位置づけとしては「悪」として存在してるように見えます。
本来はヒーローというのは迷いをもたないのかもしれませんが、スーパーマンとバットマンの人間味のある部分が、わたしには魅力的にうつりました。
言いたいことは、わたしたちが、人生において決めるべきことは「何を選ぶか」だけだと思います。
わたしたちは、なんでも選ぶことができ、人生の選択においては善悪というものは存在しません。
本当の意味で‟自分自身で”選択すること、それが人生の全てです。
わたしたちの選択は(他人に危害を加えるものでない限り)全て正しいです。
「ハウルの動く城」パート3-戦争
先日、宮崎駿監督「ハウルの動く城」において、ハウルがその場面ごとに違って見えることについて書きました。
「ハウルの動く城」の原作は、Diana Wynne Jonesによる「Howl’s Moving Castle」です。
そして「ハウルの動く城」では、原作にはない、戦争のシーンが付け加わっています。
宮崎駿監督はなぜ、戦争のシーンを描く必要があったのか?
この意味は「ハウルの動く城」の中でも非常に深いところにあるように思います。
戦争のシーンをもって、宮崎駿監督はわたしたちに何を伝えようとしているのか?
しかも、おそらく子供たちに何かを伝えるために、戦争のシーンをあえて付け加えています。
戦争を全く経験していない子供たちに対して、です。
わたしも戦争を直接的には知らない世代に入ります。
なぜか?
「戦争の残虐さを伝えたいから」それだけではない気がします。
過去の戦争について考えるべきなのか、現在起きている戦争や争いについて考えるべきなのか、未来に起きる可能性のある戦争について考えるべきなのか。
すべてについて考えざるを得ないような描き方をしているような印象を受けます。
過去の日本に焦点を合わせると、戦前の日本、戦時中の日本、戦後の日本、これを正視するように言われているようにも感じます。
ひとつ言えることは、戦争が起きれば、100%人間が死にます。
「ハウルの動く城」を観る機会がありましたら、みなさんそれぞれに、じっくり考えていただければと思います。
ひとつ、思い出したことがあるので追記します。
20数年前に、今は亡きわたしの祖父に、戦争で経験したことを書いた原稿を渡されました。
何部か冊子にしてほしいと言われ、何部かコピーをして、田舎の文房具屋さんで手に入る材料で、冊子にした記憶があります。
当時のわたしは、ほとんど何も理解していませんでした。
今手元になく、以前実家に確認したときにもすぐには見つからないと言われました。
内容は一部覚えていますが、とてもじゃないですが、ここには書けないような悲惨な描写がされていました。
本当に、ここには書けないです。
わたしの祖父の身体には2か所、撃たれた銃弾の跡がありました。
医師の視点から見ると、たまたま致命的ではないところに当たっています。致命的ではないにしろ、誰かに撃たれたことは確かで(おそらく祖父も誰かを撃ち)、出血し痛みに苦しんだであろうことも確かです。
いま心から、祖父の書いたその文章を読みたいと感じています。
彼が何を残そうとしたのか、知りたいです。
reader読者登録
ブログ購読をご希望の方はこちらからご登録ください。