たくさん考える必要性
わたしたちの脳はシリアル思考もパラレル思考も、両方できます。
「シリアル」は「直列」、「パラレル」は「並列」です。
例えば、パラレル思考の分かりやすい例ですと、電話しながらスーパーのレジでお金を払ったり、わたしたちはできますよね。
ここで、思考スピードを上げる方法を考えます。
一番簡単なのは、ひとつのことをシリアルにより速く処理することですね。
徐々に難易度は上がりますが、次が複数のことを同時並行で処理する、パラレル思考です。
そしてさらには、パラレル思考をする際に処理する情報量を増やすこと、つまり、グレインサイズを大きくすることです。
グレインサイズ=抽象度であり、グレインサイズが大きくなると潜在的情報量が増えます。
言い方を変えると、抽象度を高くすることで視点が上がり、多くの情報が視野に入ってきます。
ここまで読んでいただいて、「そもそもそんなに考えることはありませんけど」という、「そもそも論」の声が聞こえてきそうです。
そうなんです。今の日本において、洗脳のような情報が蔓延している中、普通に暮らすにはあまり考える必要性がありません。
わたしたちは、あまり考えないように仕組まれています。
では、どうなったら上記のような情報処理方法が必要になってくるのでしょうか。
それは、「本物の」ゴールを持ったときかなと思います。
「本物の」ゴールを迷いなくもつと、思考すべきことの量、処理すべき情報量が言語の限界を振り切ります。
一度でも経験すると、この感覚は分かるかと思います。
シリアル思考には「シリアルボトルネック」という速度限界があります。
それは言語の限界とほぼ近いものでもあり、そのネックを、完全に振り切らざるをえなくなります。
つまり、グレインサイズを大きくしてパラレル思考をしている状態では、もはや言語を用いていません。
なんだかワクワクしませんか?
わたしはワクワクします。
洗濯機
外国のメーカーのもので、非常にコンパクトです。
以前壊れたときに、管理会社が日本のものに変えてくれようとしてくれましたが、日本製の洗濯機で既存のスペースに入るものはありませんでした。
仕方なく新しい同じ洗濯機を使っていますが、この洗濯機はわたしになかなかのストレスを与えます。
まず、設定のダイヤルとボタンが意味不明でした。
新品のものに交換してもらった際に、職人さんから詳細な使い方を聞きました。
職人さんも、「この洗濯機はねぇ…説明なしに使えないと思いますよ」とおっしゃっていて、なんと半分以上の設定が使えないことが分かりました。
そして、この洗濯機は叩き洗いをするのですが、叩き方が半端ではありません。東南アジアの叩き洗いみたいな、と職人はおっしゃっていましたが、こんな強く叩かないだろうと思います。
できれば衣類は一切洗いたくないし、タオルでさえ傷むのが異常に早いです。
以前調べていたときに、誰かが「悲劇の洗濯機」と紹介していました。
以前使っていた日本製の洗濯機が素晴らしかったので、次に引っ越したらどの洗濯機にしようか今から楽しみにしています。
この洗濯機から考えられることは、この洗濯機が作られた国と日本で、まず洗濯物が異なる可能性、衣類等の素材そのものが大きく異なる可能性を考えていました。気候も大きく異なるかもしれません。水質も違うし、洗濯洗剤も違う可能性が高い。
この洗濯機を日本に導入しようと思いついた日本人は、おそらく、コンパクトさに着目し、それ以外の大切なことはスコトーマになったものと思われます。
通常、スコトーマには、大切な事柄が隠れていることが多いです。
それを自分の力で視野に入れるには、何度もRASを通して見える範囲をずらし、それを繰り返していくうちにふと視野に入ることがあります。
また、コーチという、プロの力を使うという方法もあります。
スコトーマ

今日は大事な用事があり、昨日から「あのジャケットを着て行こう」と決めていた服がありました。
今朝、比較的時間に余裕のある中でジャケットをクローゼットから出そうとしました。
でも、ジャケットをいくら探しても見つかりませんでした。
ここまで書いたら、苫米地式コーチングやルータイス式コーチングのことを御存じの方であれば「あ、あのことについて書こうとしているな」と分かると思うので、この話はここで終わりにします。
分からなかった方は、また同じようなことを必ず書くと思うので、楽しみにお待ちください。
最近、仕事の関係で、ふだんあまり降りない駅で降りる機会、もしくは降りるけれども行かない方向へ出る機会が何回かありました。
そのたびに、なんだか外国に来ているような感じがしてワクワクしながら新しい世界を見ました。
例えば、渋谷駅は最近のわたしにとって本当に興味深い駅で、駅から出る方面、そして時間帯によって町の表情が全く異なります。
新宿駅は、渋谷ほど周囲360°の表情が変わらないような気がします。
わたしは田舎出身というのもあり、人ごみになかなか慣れることができずにいます。
ですので、渋谷駅はプライベートで自ら行くことは、これまでありませんでした。
上京してすぐに、スクランブル交差点とハチ公と109を見に行って、それ以来ひとりで遊びに行ったことがありません。
でも、いまは渋谷駅をいくつかの方面から見ることができるので、なんだか楽しいところだなと感じることができます。
いま考えていることを書きます。
どんなことにおいてもですが、わたしたちは一度認識したものに対して、新たに再認識するのは非常に難しいです。
一度認識してしまうと、往々にしてそれが固定化されてしまいます。
苫米地英人博士の著書にもよく出てきますが、人の顔を一度認識したら、そのあとは見ているようで見ていない、ということだと思います。
さまざまなことに対して、いろんな切り口から再認識するように、心がけてみてください。
誰か人に関することでも良いし、ニュースでも良いし、モノでも良いし、どんなことでも構いません。
あなたの世界の可能性がひろがります。
歯の並べ方

わたしは今、歯列矯正をしています。
もうそろそろ1年経つので、終わりに近づいています。
知り合いに、良い矯正歯科医の見分け方を聞かれたため、かかりつけの歯医者さんに聞いてみました。
歯医者さんは悩んでいましたが、わたしの予想とは全く異なった答えをくださりました。
わたしは医師目線かつ歯列矯正の患者目線で、しかも自分の世界観で考えていたので、それ以外の見方はスコトーマ(盲点)になっていました。
歯医者さんの答えは、「患者さんの話をよく聞いてくれる歯医者ですかねぇ」でした。
詳しく聞くと、矯正歯科医にとって、「歯を並べる」のは本当にどんな矯正歯科医でも簡単に美しく並べることができるそうです。
歯を並べるのは簡単であるという前提で、患者さんの話をよく聞くということの意味を考えます。
歯をできるだけ抜きたくないという希望の患者さんの歯を容赦なく抜いてしまうと、数十年後に移植で使えるはずの歯がすでに抜かれていたりします。
また、患者さんの話をあまり聞いていないと、虫歯を見落として治療できなかったり、抜くべき歯を矯正が終了するまで放置してしまうことがあるそうです。
この話は、よくよく考えると、コーチングと似ています。
コーチングではコーチは、クライアントのゴール設定とゴール達成のお手伝いをします。
ここで、プロのコーチは全員、クライアントをゴールまで連れて行くことができると仮定します。
「話をよく聞く」というのは、コーチングでもまさにその通りで、クライアントの話を聞くことが非常に重要になってきます。
クライアントの話を聞くと同時に、クライアント自身の気持ちをとても大切にします。
「話をよく聞く」部分を甘くみてしまった場合、ゴールまで連れて行けそうだけど、その後クライアントがひとりでセルフコーチングは困難な状態になっていることがあるのではないかと思います。
また、これはあってはいけないことですが、クライアントのゴールが、コーチのゴールと同じになっている可能性もあります。
同じゴール達成でも、中身の質が異なってくるということです。
そう考えると、さきほどの矯正歯科医の話がとても興味深いものになりました。
しかも、歯列矯正の最初の数か月間は、経験した人間にしか分からない、異常な痛みと不快感を伴います。
おそらく歯の歯根部のところで、破骨と造骨が一気に起こるのだと思うのですが、はっきり言って滅茶苦茶痛いです。
わたしにとって、最初の数か月間はプリンが主食のようになっていました。
卵を使っていてカロリーもあり、プリンを考えた人は天才だなと思っていました。
話がそれましたが、コーチングも歯列矯正も痛みが伴う可能性のある行為であり、それを受ける人間の話を徹底的に聞くべきです。
徹底的に、です。
まるでコーチに話しかけているようになってしまいましたが、みなさんがコーチを選ぶ際にはぜひ「話を徹底的に聞く」コーチを選んでいただきたいと思います。
時間の性質

ついさっきまでPCで作業をしていたところ、いつの間にか2時間経っていました。
時間は、物理空間においては長さが決まっていますが、情報空間においては伸び縮みします。
なにかに集中したり没頭したりしているとあっという間に時間がたちます。
逆に、好きでないと認識していることをしているときは、時間が非常に長く感じます。
わたしは今でこそ「時間が早くたってほしい」と思うことはなくなりましたが、数年前まではあったように思います。
少し前の話ですが、秒単位の短時間にさまざまな光景が一気に頭に浮かぶという経験をしました。
物理的時間では数秒ですが、情報量は物理的時間では説明できない量でした。
苫米地英人博士の著書にもよく出てきますが、「走馬灯のような」ものです。
そのときには、時間が長く感じたというよりも、時間がのびたように感じました。
明らかに時間の伸び縮みを感じることはそうそうありませんが、普段の生活の中でも微妙に、けれど確実に伸びたり縮んだりしています。
少し話は変わりますが、最近、海外に住んでいる従姉妹とよく電話で話をします。
時差が3時間あり、従姉妹が住んでいるところは日本よりも3時間早い時刻です。
そして、成田空港からその国の空港までの飛行時間は約11時間です。
彼女と電話で話しているとき、わたしは不思議な感覚を感じます。
時差が3時間、飛行機で11時間のところで、同じ時間が流れている。
向こうは向こうで、夕飯を食べ終わってくつろいでいる時間なのだなぁ、1秒は同じ1秒なのだなぁ、としみじみ感じます。
電話の向こうで、旦那様が英語で話しかけている声が聞こえたりします。
時差は常識的なことなのですが、わたしにとっては不思議に感じます。
まだ従姉妹の国には行ったことがありませんが、もし行く場合は、飛行機の中で時間のねじれを感じそうだなぁ、と考えています。
ねじれたところを通過して、その場所に到着する気がします。
そういう意味で、わたしにとって海外便は楽しいミニタイムマシンのようなイメージがあります。
いちど、常日頃の時間という存在を、よく観察してみてください。
わたしたちは人間という情報的存在なので、時間の伸び縮みを感じることができます。
それが4次元の一つの軸である「時間」の性質なのだと考えると、ゴールに向かって過ごす「時間」というものが味わい深いものになる気がします。
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