201706.25

ペットショップは日本の恥

Post by 中西千華 2017年6月25日

半年以上前に書きかけた記事を、最後まで書きます。

過去のわたしは、最後まで書くのを諦めました。

「日本のペットショップ」について、です。

日本では当たり前のように犬や猫が値段を付けられてペットショップで売られていますが、地球規模でいうと当たり前ではありません。

多くの先進国では動物愛護の考えが進んでいるので、保護施設やシェルターから動物を引き取ります。

そう、日本のペットショップ文化は、日本の恥です。

わたしの経験を共有させていただくため、過去の経験を思い出して書きます。

わたしが研修医のときに、「地域医療」という研修の名のもとに、地域の動物愛護センターの見学に行ったことがあります。

他の選択肢もあったように思いますが、なんとなく「愛護」という美しいネーミングにつられて、可愛い動物を見ることができると思って選んだのかもしれません。

動物愛護センターの表向きはとても綺麗で楽しげに作られていて、最初は、保護された犬や猫たちが、どんなふうに引き取られていくかを聞きました。

その後、保護されている動物たちを見ました。

わたしが見た場所は、犬が収容されているところでした。

動物愛護センターの、裏の部分です。

そのセンターでは、動物が収容されて3日間経ったのち、殺処分されます。

たった、3日です。

たとえ、道に迷って帰ることができなくなっていた動物だとしても、飼い主からの連絡がなければ4日目には殺されます。

記憶が間違っている可能性もあるのですが、犬が収容されている場所が印象に残っています。

犬の檻がずらっと並んでいる真ん中に、ガラス張りの殺処分する場所が設置されていました。

殺処分する場所はそのときとても広いように感じましたが、おそらく実際は小さいのではないかと思います。

圧倒されてしまって大きく感じたのかもしれません。

表現が難しいのですが、「こんな悲しい場所がこの世に存在するんだ」と感じるような場所でした。

氷のように冷たくて、悲しくて、苦しくて、痛くて、生きるものの苦しみを一気に集めたような、本当に地獄のような場所であったように思います。

殺処分は二酸化炭素ガスで行われるようですが、はっきり言って、それが安楽なわけがありません。

麻酔科医という視点から考えると、殺す側にとって動物が安楽かどうかは問題ではなく、単純に二酸化炭素ガスを用いるのが最も安価なのだと思います。

要は窒息死です。

3日間収容された後、わけもわからないまま殺される順番が来て、想像を絶する苦しみを与えられて殺されます。

端にある檻から順番に出されて殺されていくので、「殺される時期が近づくのが、犬には分かるようで怖がるんです。」と、その時に聞いた気がします。

わたしが見た場所は犬の収容場所だけで、猫の収容場所は見せてもらえなかったように思います。

実際は猫の殺処分は犬よりも遥かに多いので、見せてもらえなかった理由としては、関係者以外に見せられるような場所ではなかったのだろうと思います。

動物好きの方には、ぜひ動物愛護センターの見学をしていただければと思います。

裏側をそこで見ることができます。

日本の動物愛護センターは、「愛護」という美しい言葉を用いていますが、動物を殺す場所です。

行って初めて、“殺す場所”だと知りました。

わたしにとっては10年以上前の経験ですが、あの冷たさを経験しておいて良かったなと思います。

そして、今一度考えていただきたいのが、ペットショップで動物が売られている背後に、繁殖させて利益を得ている人間がいるということです。

真摯に動物に向き合っているブリーダーの方々がいる一方、利益を得るためだけに繁殖させるパピーミルと呼ばれる繁殖業者がいます。

ペットショップで売られている動物は、通常はパピーミルが繁殖させたものです。

パピーミルにおいて、親動物達は、愛情を与えられないのはもちろんのこと、エサもろくに与えられず、不要になったら捨てられます。

生まれてきた赤ちゃんの動物たちも選別され、売り物になる“合格者”がペットショップに並びます。

お金を得るという目的だけのために、たくさんの命がボロボロになっています。

なぜそんなことをするかというと、単純に、“儲かるから”です。

“ペットショップで動物が売れるから”です。

もう一度書きますが、日本のペットショップ文化は、恥ずべき文化です。

日本という国の問題ではありますが、わたしたちひとりひとりが考えて行動することができます。

コーチングとはあまり関係がないように思われますが、今回書いたことは、日常に疑問を持ち抽象度を上げることで初めて見えてくる世界です。

201706.19

お金を目標とすること

Post by 中西千華 2017年6月19日

写真はニュージーランドに行ったときにスーパーマーケットで撮ったものです。

水が2本で、NZ$4と、スーパーマーケットなので安いです。

NZ$4は日本円で320円ぐらいです。

値下げされてこの価格です。

日本にいる感覚で見ると高く感じるので、わたしは滞在中一度もペットボトル飲料を買うことはありませんでした。

水もソフトドリンクも、ペットボトル飲料の値段はあまり変わらなくて、だいたい1本600mlぐらいでNZ$4前後です。

それほど大きくないペットボトル飲料が、1本300円以上で売られているのは違和感がありますよね。

ペットボトル飲料が高く設定されている理由はいくつかあるはずで、思いついた2点を挙げてみます。

わたしの考えにすぎませんが、ひとつはニュージーランドが生態系維持にとても厳しい国ですので、飲み物が高いのではなく、ペットボトルのボトルそのものに高い値段を付けているのではないかなと考えています。

もう一つは、ペットボトル飲料の生産ラインが限られているか、何かの理由で生産においてお金がかかるのではないかと推測しています。

では、次の写真を見てみましょう。

チーズ売り場です。

写真はチーズ売り場のほんの一部で、棚一面に本当にいろいろな種類のチーズが売られています。

ニュージーランドには羊がたくさんいて、乳製品は日本によりもはるかに身近なところにあるように感じます。

チーズの値段がペットボトル飲料の値段と、さほど変わりません。

面白いですよね。

ニュージーランドを見るだけでもこんなに日本と物価が違うので、地球全体を考えると、その場所ごとにお金の価値が大きく変動します。

ペットボトル飲料の価値が違うのではなく、それに付けられるお金の価値が違う、それだけです。

この記事でもっとも言いたいことを書きます。

価値の変動するものをゴールにするのはリスキーである。

よってバランスホイールに収入のゴールを設定する場合にも、「お金の価値は変動し、ときに価値はゼロになる」可能性を常に頭に入れておくほうが良い。

そう思います。

お茶会やセミナーで、収入の数値の設定について話すことはありますが、上記のことも話します。

また、収入源を複数持つ方が良い、という文脈をあちらこちらで読むことがありますが、わたしはその必要はないと思います。

職業が複数になるのはwant toで行動した結果の“結果論”であり、「もしものときのために」収入源をいくつか持つ必要はありません。

そもそも、お金の価値がゼロになる可能性がある時点で、収入源を複数持つことは何のリスク分散にもなり得ません。

なにも、問題ありません。

価値の変動するものに、よくわからないまま左右されたり執着する必要はないように感じます。

わたしたちは人間で、生きている時間は限られています。

このことを忘れてはいけないと思います。

201706.19

懐かしい、という日本語

Post by 中西千華 2017年6月19日

先日の英会話のレッスンで、自分の大好きなものや好きでないもの、なんとも思わないものについての表現の仕方を習いました。

実際のところ、今のわたしにはこだわりがあまりなくて、予習の時点で「なんとも思わない」や「なんでも好き」という文章が多くなりました。

今は食事にも音楽にも「大好き!」がなく、結果として、「以前はこういったものが好きでした」という予習になりました。

レッスンのときに英会話の先生と話をしながら、以前はいろいろなこだわりがあったなぁと思い返していました。

こだわりといいますか、言うならば執着ですね。

10代から20代のころには、好きなミュージシャンやバンドがいくつかあって、多くは洋楽でしたが、歌詞を今でも全部覚えているくらいよく聞いていたものもあります。

あるミュージシャンについて話をしたとき、英会話の先生もたまたま同じミュージシャンが好きで、話が盛り上がりました。

ついつい「あー、懐かしい!」という日本語が口をついて出ました。

英会話の先生は楽しげに、「NATSUKASHII!それとピッタリくる英語はないの!言うとすれば…」

と、いくつか、“懐かしく思う”を意味するフレーズを教えてくれました。

どんな言語同士でも、どんなに上手く訳してもぴったりの意味にはなりにくいと思っていましたが、「懐かしい」に関しては興味深いなと思いました。

多くの日本人は日本の文化の中にずっといるのでスコトーマ(心理的盲点)になりがちですが、たぶん日本人は、自分たちが考える以上に過去の話をして懐かしんでいます。

しかも、日本人は懐かしい話が大好きです。

わたしの周りにも、大昔の自分の武勇伝が大好きで、ずっと過去の話をしている人がいます。

何かを懐かしむことは過去を向いていることに他ならず、人生の多くの時間を過去を見ながら過ごした場合、必然的に「今」と「未来」が見えづらくなります。

何かを見ることは、他のものを見ないことを意味します。

良い悪いではなく、何を見るか、選択するのはわにしたち自身です。

201706.15

だいたい並んだ歯

Post by 中西千華 2017年6月15日

“だいたい並んだ”と言うと、担当してくださっている歯科医師に「おい」と言われそうですが、歯がだいたい並びました。

わたしの担当の歯科医師は楽しい方で、「麻酔科医に麻酔をするのはシュールすぎる」と、なかなかわたしに局所麻酔をしてくれません。

結局、ここ数年間において局所麻酔を受けたのはほんの1~2回で、われながら痛みに耐えたと思います。

約1週間前に、歯列矯正がひと段落ついて、歯の表面の矯正器具を取り外していただきました。

今は歯の裏にfixed retainerという、リテーナーを取り付けてもらっています。

わたしは歯科医師ではないので詳しいことはわからないのですが、リテーナーにはいくつか種類があり、歯列矯正後の保定期間に用います。

保定期間は3〜4年と聞いています。

3~4年、長いですね。

それほど、いったん動かして並べた歯をそこに留めるのには時間がかかるということだと思います。

リテーナーをしないと、せっかく並んでいた歯がすぐに動いてしまう、というのはよく聞きます。

今でも、わたしの歯のうちの1本が「ここは落ち着かない」と動こうとしているのがわかります。

でも、元に戻ろうとしても、その歯がもともとあった場所はすでに存在しません。

周囲の歯の状況が“完全に”変わってしまっているからです。

なので、その歯が動いてしまうと、おそらくとんでもない方向に動きそうな気がします。

ここからコーチングの話を少しさせていただこうと思います。

適切なコーチングを受ける、もしくはその後セルフコーチングを行うと、コンフォートゾーンが徐々に変化します。

コンフォートゾーンとは、わたしたちの快適な場所(zone=範囲)を指し、生活すべてがコンフォートゾーンの中にあるとも言えます。

住まい、食事、人間関係、仕事、趣味、あらゆるところにコンフォートゾーンが存在しています。

そして、コンフォートゾーンそのものが動くとき、わたしの1本の歯のように“抵抗”が生じる場合があり、わたしたちにとって不快な症状として表れることがあります。

もしからしたらみなさんの中には体験したことがある方がいらっしゃるかもしれません。

これまで長らくいた“安全な場所”から外に出ることは危険だと、わたしたちの脳が判断して引き戻そうとするからですね。

また、コーチングを受けるときに注意しなければならないのは、コーチングによって物の見方(マインド、心、脳)が変わるので、人生が大きく変わることがあります。

すごく簡単にわかりやすく言うと、コーチングによって「視野が広く」なります。

ただ、わたしの1本の歯が戻ろうとしても戻る場所がすでにないように、いったん視野が広がった状態から、前の状態に戻ることは基本的に難しいです。

たとえば、わたしが麻酔科医として学び始めたころは準備にすごく時間がかかっていましたし、ちょっとしたことで大慌てして先輩を呼んでいました。

それと同じことが今のわたしに起きるかというと、おそらく起きないです。

これはたとえですが、要するに、コーチングを受けることによって視野が広がり人生が変化するのですが、それまでの過去の状態には戻りづらくなります。

良い悪いではなく、そのことをよく理解しておく必要があるような気がします。

201706.11

好きなものは好き

Post by 中西千華 2017年6月11日

わたしたち麻酔科医が“日麻”と呼ぶ、日本麻酔科学会の、今年の学術集会が終了しました。

専門医制度が新しく変わることになり、学術集会の様子が変化しています。

日麻では昨年から、学術集会がディズニーのアトラクションのように混雑するようになりました。

制度がどうなるのか分かりにくいためにとりあえず点数を押さえておこうという動きがあり、もはやwant toではなくhave toで動かざるを得ない部分があるように見受けられます。

おそらく一過性であり、数年後には落ち着くのだろうなと思います。

ちょうど一年ほど前に、「パノプティコン」と「バイオ・パワー」の概念について書きました。

わたし自身の復習もあり、再度記載しておきます。

バイオ・パワーとは、私たちの生活の営みの中で自然に生み出される権力のことです。

パノプティコンは監獄を見張る一望監視システムのことで、監獄の高い塔に看守がいて、看守が囚人を見張っており、囚人からは看守が見えない構造になっています。

パノプティコンでは、囚人は見られているかもしれないという恐怖で逃亡や暴動を企てなくなり、そこにはバイオ・パワーが働いている。そして社会のシステムはまさにパノプティコンだと、ミシェル・フーコーは指摘しています。

(newsjunkiepostより引用)

以上、昨年の記事より。

実際、社会のあちらこちらで、バイオ・パワーが働いているパノプティコンのような部分があります。

わたしたちは本当は自由なのに、自由でないかのように錯覚を起こしています。

わたしは、学問というものは本来“want toのみ”で追及するものだと考えるので、早く専門医制度が落ち着けば良いなと思います。

たとえ周囲がバイオ・パワーによってhave toで動いているとしても、自分自身はぶれずにいたいものです。

“好きなものは好き”、それだけです。

他人のhave toは、こちらのwant toに関係ありません。

バイオ・パワーが働いている状況下でも、周囲に惑わされることなく自分の心を静観する習慣は、とても大切です。

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