早朝から神社
今日は暑くて目が覚め、朝からいくつかの神社に行ってきました。
わたしは3日に1回はどこかの神社に立ち寄っていることが多く、1週間どこにも参拝しないとやや落ち着かないです。
信仰心が強いとか、御朱印を集めているわけでもありません。
ただ、参拝しているだけです。
最近はジャケットを着ない日もありますが、ジャケットのポケットには参拝で使う小銭が入っていることが多いです。
今日は、こちらの七福神のお一方が気になって、しゃがんでじっくり見ていました。
「なんと。こんなに爆笑していたのか。」と、キュートすぎる姿に嬉しくなりました。
大きく口を開けて、歯を見せて笑っています。
微笑みというよりも、爆笑です。
何回か来ているのに、初めて発見するものがあるのは、人生でも同じですね。
神社それぞれ、場所の雰囲気は異なり、パワースポットと呼ばれているところもあります。
そしてみなさん御存知のとおり、神社には鏡が神の依代として祀られています。
わたしは神社の鏡を見ながら、いつも少しの時間考え事をしています。
なので時間をとるので、手を合わせる時はいつも真ん中には立たずに端っこで手を合わせます。
なんとなくわたしは、“自分自身の本質”と向き合うために、神社に行っている気がします。
そこに神様が祀られているのはもちろんなのですが、さらにその中に、自分自身を感じます。
今日、爆笑している七福神のお一方に立ち止まったのも、何か理由があるのかもしれません。
食事は命をいただくこと
わたしは料理がそれほど得意ではありませんが、たまに野菜のセットを送ってもらいます。
野菜は東京でも買うことができます。
でも、その野菜が穫れる場所から直接送ってもらう方が、野菜たちのパワーがほとんど落ちていないように感じます。
その地域の旬の野菜を入れてくれているので、こちらの料理の技量に関係なく、いろいろな野菜が入っています。
今日は写真にあるふきと里芋を、煮物にさせていただきました。
わたしがスーパーに行って、ふきと里芋をチョイスすることはあまりありません。
好き嫌いはないのですが、ついつい下準備がほとんど必要ない野菜を買うことが多いです。
ふきは塩で板ずりをして、ゆでた後、水にさらしてから皮をむきます。
里芋は洗ってから皮をむくのですが、むき方にこつがあります。
淡々と下ごしらえをするのですが、下ごしらえの一番のポイントは感謝しながら野菜に向き合うことだと感じました。
最初はなかなか上手にできなかったのですが、感謝しはじめると、なんとなく上手くできるような気がしました。
「わたしたちは野菜の命をいただいているのだなぁ」と改めて感じながら、いま、お鍋で煮ています。
命に対する、礼儀ですね。
“Bakery Scan”と曖昧さ
昨日、勤務先に行く前にパン屋さんに寄ってパンを買いました。
そのパン屋さんは混んでいることが多く、以前行った時も並んで買いました。
そのパン屋さんのレジで、見たことのないレジが導入されており、びっくりしました。
わたしは初めて見たのですが、もしかしたらみなさんの中には御存知の方がいらっしゃるかもしれません。
調べたところ、“Bakery Scan”という名前の画像認識システムだということです。
日本の株式会社ブレインという会社が開発、製造販売しています。
これは昨日撮った写真です。
パンをトレーに載せてレジに持っていくと、トレーをカメラが撮影し、一瞬で合計金額が出ました。
数秒や数分ではなく、一瞬、です。
パンは袋などに入っておらず、パンの形状と色で商品を認識しているようです。
パンは似たような形のパンがたくさんありますし、色目もよく似ていることが多いです。
にもかかわらず、形や色における“曖昧さ”を瞬時に認識していることにびっくりしました。
パン屋さんの中には、あらかじめ袋にいれた状態のパンを並べているところもありますが、どうやらパンは袋にいれずにそのまま並べるほうがよく売れるようです。
こちらのお店でも、店頭に焼きたてを並べており、レジで一個ずつ紙袋に入れてくれます。
前に来た時は、レジ打ちに時間がかかり、さらに紙袋に入れるのに時間がかかり、行列になっていました。
今回はレジ打ちは一瞬でしたので、待ち時間は少し短縮されたのかもしれません。
けれどレジ打ちに余裕ができたからといって、店員さんと会話をするわけでもなく、商品を受け取ってお店を出ました。
・・・ここまで書いてきて、頭の中でいくつかのことを考えており、今回何について書こうか考えています。
考えていることのうち三つを挙げてみるので、みなさんも考えてみてください。
まず一つ目、Bakery Scanのようなシステムが、どのような状況で必要で、どのような状況で不要(むしろないほうが良い)か。
そして二つ目、このシステムはパンの曖昧さを認識できるようにプログラムされているわけですが、コンピュータの曖昧さの認識を人間と同じレベルにすることは可能か。
三つ目、わたしが住んでいる地域に野菜などを売っている小さなスーパーがあります。レジにはバーコードリーダーさえないのですが、店員さんの一人に、わたしの買い物カゴを見た瞬間に“合計金額”を言える人がいます。“Bakery Scan”と同じスピードです。その店員さんの認識方法はどのようであり、また、その人の目に世界はどのように映っているのか。
もしかしたら三つともさほど難しくないのかもしれません。
二つ目は、読む人によっては愚問に感じられるかもしれませんが、面白いのでこれについて考えてみます。
要は、人間には曖昧さを識別する能力がありますが、コンピュータが人間と同じレベルになるか、という質問です。
わたしはつい即答で「同じになる」と答えたくなりますが、では、さらに考えます。
(「同じになるわけがない」と考えた方も、本当に同じになり得ないのか、考えてみてください。)
果たして、わたしたちの気持ちの中に存在する曖昧さをコンピュータは認識できるのでしょうか。
果たして、例えば、麻酔という業務をコンピュータが完全に真似できるのでしょうか。
後者の麻酔については、コンピュータを否定したいわけではなく、麻酔科医が不要になるという話を数年前から聞くことがあるので本当にそうなのかずっと考えています。
もしも麻酔科医が不在でもコンピュータ管理のみで手術ができるのであれば、麻酔科医が不足している地域の問題を解決することができます。
あくまでもわたしの視点から、このことについて少し考えてみます。
わたしは麻酔科医の代わりとして、手術中に血圧が下がれば昇圧薬が点滴から入るような麻酔科医の仕事ができるシステムを作れば良い、という単純なものではないような気がしています。
麻酔科医はいろいろな情報を五感を使って感知し、情報を並列処理しています。そしてあらゆる可能性を想定しながら動いています。
患者とバイタルサインだけを見ているのではなく、術者のスピードや様子、出血した場合には院内に輸血の準備があるか、なければどこから何分で運んでくるのか、看護師はどのような様子か、など考えていることを挙げるときりがありません。
術中に血圧が低下したとすれば、昇圧薬を投与しながら原因を把握する必要があります。
麻酔の深さは適切か、術野で出血していないか、アレルギー反応は起きていないか、患者の年齢や基礎疾患はどのようか、など、これも挙げればきりがなく、原因によって対応が変わります。
そして万が一原因がはっきりと分からない状況であっても、患者を守るために次にすべきことを判断しなければならない時があります。
また、大量出血など非常事態において外科医である術者が慌ててしまっている場合に、たとえば輸血が到着するまで、状況によるものの術者にいったん手を止めて待つことを提案する必要が生じるときがあります。
今は手を止めるべきだという判断を、コンピュータが術者に伝えるのでしょうか。
もしもわたしが麻酔科医でなく外科医ならば、コンピュータの言うことなど聞かないと思います。
こうしてさまざまな状況を考えていくと、果たしてコンピュータが麻酔管理できるのか、やや難しい問題だと感じられると思います。
わたしはコンピュータに詳しくないのですが、なんとなく、コンピュータは「曖昧なものを曖昧なものとして」認識するのは難しいのかもしれないなと、感じます。
わたしたちは人間なので、基本的には「曖昧なものを曖昧なものとして」認識する能力があります。
すべてのことに白黒つけたい気持ちもとってもよく分かりますが、曖昧さがあるからこそ、悩んだり苦しんだり、逆に喜んだり楽しく感じることができるのかなと思います。
わたしたちが白と黒だけではない、グレー全段階をそのまま認識できるのは、実は、素晴らしいことです。
虹は輪っか
美しい虹を見たので記事にします。
NewZealandからの帰りの便は、Aucklandを朝出発し、夕方成田に着く便でした。
写真は、成田に向けて高度を下げているときに飛行機の窓から撮った写真です。
写真では弧の一部に見えますが、見えたのは円形の輪っかの虹でした。
飛行機が旋回していたので、円形の虹の周りを回っているようでした。
わたしはこれまで、弧を描いている虹しか見たことがなかったので、本当にびっくりしました。
しかも、主虹の外に副虹も見えていたように記憶しています。
この写真では副虹が見えるような見えないような、というところですね。
「虹って、弧じゃなくて輪っかなんだ!」と初めてはっきりと知りました。
幼い頃に母親から聞いたような気もしますが、すっかり忘れていました。
多くの場合、虹が地球の地平線にぶつかるから弧に見えるだけで、虹の形状は実は「輪」です。
弧に見えるから、弧だと信じていました。
わたしたちが肉眼で認識できるものは、本当に限られているのだなぁと改めて感じました。
わたしは数年前までは、自分の眼で認識できるものだけを信じる傾向がありました。
目で確認できないもの、科学的に証明できないものは、拒絶していたように思います。
この宇宙において、人間の目に映るものはほんの一部です。
最近は、わたしの感性が変化しつつあり、“目で認識できないものを肌で観ている”ときがあります。
自分でも不思議なのですが、大切なものがスコトーマ(心理的盲点)から顔を出し始めたのかなと思います。
初めて見た輪っかの虹、二重の虹、とても美しかったです。
The point is…
前にも書いたことがありますが、『Grey’s Anatomy』というアメリカのテレビドラマをたまに観ます。
『Gray’s Anatomy』という医学書が実際にあり、テレビドラマではMeredith Greyが主人公なので『Grey’s Anatomy』という名前が付けられています。
とても魅力的な方々がたくさん出演されていて、ドラマの内容も面白いです。
最近はシーズン11を観ており、その中で印象に残ったシーンがあったので、記事にしようと思います。
主人公はMeredith Greyですが、その時々でスポットライトの当たる人物が変わります。
最近見ていた場面は、胎児外科の権威である女性医師が、脳腫瘍を患っている場面でした。
その脳腫瘍は手術で取るのが難しい場所に存在しており、何人もの脳外科医に治療できないと諦められていました。
女性医師はすでに治療を諦めており、自分の命の続く限り、Arizona Robbinsという医師を自らの後継者として育成しようと力を入れます。
治療を完全に諦めていたところに、同じ病院内の脳外科医が「わたしなら手術で取れる」と手術を勧めます。
最初は「“希望”を持ってしまうことが癌の患者にとって最も大きな問題だ。“希望”を持たされては全て打ち砕かれた。私は治療を受けない。」と治療を拒みます。
でも、少しずつ希望を持ち始め、手術の日が来ます。
10時間を超える長時間の手術が終わり、何日も何日も、女性医師の目が覚めない状態が続きます。
そしてついに、目覚める瞬間が来ます。
気管内挿管のチューブを抜管した瞬間、「Mummy,mummy,…」と子供のように言い始めたので、わたしもドキッとしました。
脳の機能に問題が生じたのかと思ったからです。
でも、「Mummy」は彼女の冗談で、「わたしは大丈夫よ。でも、失明したわね。」と明るく言葉を発します。
視神経の近くの腫瘍だったため、腫瘍は完全に取れたものの、失明したのです。
外科医にとって、目が見えなくなることは外科医としての生活が完全に終わることを意味します。
Arizona Robbinsがショックを受けている横で、彼女は明るくこう言います。
「The point is… I am alive.」
このフレーズがとても印象に残って、しばらく頭から離れませんでした。
重要なことは、今生きているということ、です。
たとえ人生がどんなに辛い状況であったとしても、“生きている”という事実があります。
生きているという事実があれば、それで良いということです。
死が怖いとか不幸だとか、そういうことを言っているのではありません。
人間にとって、死は遅かれ早かれ100%おとずれるので、死と比較することはナンセンスです。
何かとの比較なしの、ただ、“生きていること”の大切さ。
The point is… I am alive.
わたしたちは、生きています。
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