利他的とは何か?
わたしはそのときどきにおいて、考え事をいくつかしています。
みなさんもそうかもしれません。
たいていはすぐに答えの出ないものなので、複数のものを長期間に渡って考え続けています。
Adam Grant著『GIVE&TAKE』を読みながら、“徹底したギバー”というものについて考えていました。
この本の中では、ギバー、テイカー、マッチャーという3つの人間のタイプを紹介しています。
Adam Grant氏によると、ギバーは人に惜しみなく与える人(他人の利益を優先させる人)、テイカーは与えるより多くを受け取ろうとする人(自分の利益を優先させる人)、マッチャーは損得のバランスをとる人、です。
本の中に書かれていますが、人間は、これらの中の1つのタイプだけであらゆるシーンに対処しているわけではなく、その時に応じて使い分けている場合がほとんどです。
そしてこれらの使い分けの割合が、人によって異なるかと思います。
この3つのタイプについて考えるだけでも面白くて、(1つのタイプに分類するとしたら)一見テイカーかマッチャーに思われそうな人がギバーだった、とか、身近にありそうだなと考えを巡らせていました。
話を戻しますが、“徹底したギバー”について考えて続けているうちに、「利己的とは何か?利他的とは何か?」という疑問にぶち当たっていました。
わたしはときどき疑問にぶち当たり、さらに考えているうちに、答えだと思われるものと出会います。
「利己的とは何か?利他的とは何か?」
これはなかなか深い疑問で、考えれば考えるほど、堂々巡りになる可能性があります。
「利他的だと思っていたものが、実は結局、利己的なのではないか?」
例えば、人を助けることで“自分”が安心するから人を助けるのではないか、ということです。
みなさん、どう思われますか?
まったく同じ事象を、異なる立場から見ることが可能であり、異なる見解を出すことになります。
しばらく、このことについて考えていたのですが、Adam Grant氏が本の中で引用している文章がありました。
以下、孫引きになりますが、引用します。
動物行動学者のフランス・ドゥ・ヴァールが著書『共感の時代へ』(紀伊國屋書店)で書いているように、「利己的か利他的かで分けることは、根本の問題から注意をそらすためのものかもしれない。なぜ自己を他者から、あるいは自己から他者を引き離そうとするのだろう。この二つを一体化することが、人間の共同性に隠された秘密であるというのに」
ここに答えがあるような気がして、「そういうことか」と、納得しました。
これ以上書くと引用した文章が濁るような気がするので、ここでこの記事は終わりにします。
「悩む」のではなく「考え抜く」。
とってもとっても、大切だと思います。
本を選ぶ
わたしは読書が好きで、出かけるときはたいてい本を1~2冊持っています。
本と同時に、電子書籍の入ったiPadを持っていることも多いです。
本はAmazonで買うことが多いのですが、先日、本屋さんで本を買いました。
本屋さんで立ち読みをして選んだわけなのですが、久しぶりに本選びで失敗しました。
良書に出会えればラッキー、と捉えている反面、今の自分にとって必要のない本を選んだことに、「あら」と思いました。
わたしは本をきちんと読むとき、3色ボールペンを持って線を引いたり書き込んだりしながら読みます。
ボールペンの色や、線やマークの種類を変えながら書き込みます。
特に理解できないところには、「?」を付けます。
その本は、欧米圏の方が諸子百家の思想について論じているものでした。
孔子の項目を読み終わり、その他の諸子百家の思想について書かれているところを少し読み、本全体の1/3ぐらい読んだところで「読むのをやめよう」と思いました。
その時点でたくさん「?」などを書き込んでしまっていて、中古本屋さんに持って行きづらくなりました。
そして今、本屋さんで本を買うときの失敗を防ぐための、予防策を考えています。
良書に出会えればラッキーという考えは変わっていないのですが、あまりに必要のない本を買うと、いろいろなものがもったいないと感じます。
3点挙げてみます。
①本屋さんで本を手に取るとき、「速読」して内容を確認します。この後、もう一段階加えて、必要に応じて一部「浅めの熟読」という段階が必要な場合があると感じました。
②翻訳本というのは翻訳者によって、本の質に天と地ほどの差が出ます。翻訳本の時は、原著の表現はどのような表現なのだろうかと考えながら読み、翻訳者が正確に翻訳しているか推測します。
③帯にキャッチ―な文章が書かれていたり、権威を感じさせる単語が用いられている場合はいつもよりも注意が必要かなと思います。
たぶん今回は、①の「浅めの熟読」を5分でもしていれば買わなかったなぁ、と次に生かそうと思います。
なお、速読して、だいたい内容が分かるようであれば、買う必要がないです。
専門的過ぎて全く理解できない本も読み進められないので買う必要がなく、だいたい5~6割ぐらい理解できるものがちょうど良いのかもしれません。
また、翻訳本は注意が必要で、今回買った本は、欧米圏の方が諸子百家の思想について書いた本の翻訳本でした。
簡単に書くと、伝言ゲームというのは通常段階的に純度が下がるものであり、最後に伝えられるものはもはや原形をとどめていないことがよくあります。
その本からは、そんな印象を受けました。
人生の時間というのは限られていて、読む本の冊数というのも限界があります。
読む本が多ければ良いというものではなく、みなさんそれぞれにとって激選された良書に出会っていただくことができれば、わたしも嬉しく思います。
続「ちいさなちいさな王様」
続編です。
この本の中のあるシーンが素敵で、印象に残っています。
「4 命の終わりは永遠のはじまり」という章で、夏の夜に「僕」と「王様」が一緒に空の星をみています。
実際には、「僕」の上に「王様」が仰向けになってひっくりがえっています。
僕の、「自分がひどくちっぽけで、無意味なものに感じるよ」という言葉に対し、王様が「おまえというやつは、それだけ大きな図体のくせして、あの彼方にある星をちょっと見ただけで、もう自分がちっぽけだなどと思うのかね?」と言っています。
このあと、王様が自分が星を見てどんな気分になるか話した言葉が、とても魅力的なので、ここは全文引用します。
「なんだか、自分が巨大になっていくような気がしてくるのだ。おれはどんどん伸びて大きくなっていくばかりだ。宇宙までとどくぐらいにな。大きくなるといっても、あの、空気を入れてふくらんでいく風船のようにではないぞ。あんなのは、いつかは限界に達して、パンッと割れてしまうからな。そうではなくて、まったくなんの心配もなく、あたりまえのようにすくすく大きくなるのだ。なにか、表面の皮とかが、無理に薄くひっぱりのばされていったりするようなことはない。自分がまるで、もくもくとふくれあがっていくガスになったような気分だ。そのうちにおれは、宇宙の一部にすぎない存在ではなくなる。おれ自身が宇宙全体となって、あの無数に輝く星さえも、おれの中にあるのだ。この気持ち、想像できるかね?」
王様の気持ち、想像できますか?
もしかしたらできる方もいらっしゃるかもしれません。
この王様の言葉はとても大切なことを表現していると思います。
「自分自身というものが、宇宙を内包する」というような表現になるかと思うのですが、そのことを優しくキラキラと表現している気がします。
この本を子供に読み聞かせたら何を感じるのだろうと、とても興味深いです。
訳も素晴らしいですし、挿絵もとても美しいです。
小さな王様が胸を張っていたり、ちょこんと座って居たり、この挿絵はミヒャエル・ゾーヴァ氏にしか描くことができないのではないかなと思います。
機会がありましたら、ぜひ一度読まれてみてください。
「ちいさなちいさな王様」(アクセル・ハッケ作、ミヒャエル・ゾーヴァ絵、那須田淳/木本栄共訳 講談社)
「ちいさなちいさな王様」
少し前から、不要なものを手放すという作業を続けています。
その作業の中で、「ちいさなちいさな王様」という本を久しぶりに手に取りました。
挿絵がとても魅力的な、「ちいさなちいさな王様」(アクセル・ハッケ作、ミヒャエル・ゾーヴァ絵、那須田淳/木本栄共訳 講談社)です。
これは妹からもらった大切なものなので、手放しません。
この物語の登場人物は、「僕」と「王様」で、王様は十二月王二世という名前です。
「王様」は「僕」と出会った時には「僕」の人差し指ぐらいの大きさです。
王様の世界では、生まれる時は大人としてベッドで目覚めます。
王様の言葉を引用すると、「おれはだな、ある朝、ふいにベッドで目覚めたのだ。それから仕事をしに王子の執務室に行ったのさ。実に、単純なことじゃないか。おなかの中にいるだと?ばかばかしい!人生というのは、ある日起き上がって、それですべてがはじまるのだ」と王様は言っています。
この言葉はなかなか面白くて、わたしたちも朝起きたとき、1日という人生を始めている気がします。昨日までの記憶との連続性があるためにすべてがはじまったようには感じませんが、実際には新たに始まっているのではないかと思うことがあります。
王様の世界では、そのあと少しずつ小さくなって、見えなくなるぐらいになるそうです。
小さくなればなるほど、多くのことを忘れていくけれど、人生経験が豊富なので偉いそうです。
王様が見えなくなったら、王子が王位を継承します。
僕が質問しています。「きみには、ひょっとして永遠の命があるのかい?」
そのあと僕がひとしきり質問したあと、それに対して王様は「そんなこと、おれにもわからないな」と答えています。
「死」という言葉が出てこないのが気になるというか、魅力的というか、小さくなって見えなくなったあとどうなるかはわからない、というのがなんとも深いです。
わたしはいまだに、この本のストーリーの意味がはっきりと理解できずにいます。
短い本なのですが、いろいろな意味がたくさん込められていて、それをすべて拾いきれずにいるような感覚です。
続編に続きます。
「イワンのばか」
『イワンのばか』はTolstoiの作品です。
宮崎駿監督の『本へのとびら』という著書の中の、『イワンのバカ』に対するコメントが印象に残りました。
宮崎駿監督のコメントを引用します。
「人はどのように生きるべきなのでしょう。子供のころ、この本を読んでぼくはとても心をうたれました。ばかのイワンのように生きられたらどんなにいいか。でも、それはとてもむずかしい。自分にはできそうにありません。そう思うのに、ぼくは今でもイワンのように生きられたらと、時々思います。」
イワンには兵隊のシモンと太っちょのタラス、そして耳と口が不自由なマルタという妹がいます。
シモンとタラスはそれぞれ欲があって、それでもイワンは何でもあげるので、仲良く暮らしています。悪魔がそれをみて、けんかさせようと考えてシモン・タラス・イワンにいろいろな意地悪をしかけます。
シモンとタラスは悪魔によってとっちめられてしまうのですが、イワンは何でもあげるし、困った人を助けるし、王様になっても働き続け、ついには悪魔が退散してしまいます。
宮崎駿監督の「人はどのように生きるべきなのでしょう。」という言葉が心に刺さります。
ばかのイワンは、一言で言うととことん利他的に生きているように感じます。
シモンは権力に対する欲、タラスは食欲をはじめとする物欲を表しているように感じ、悪魔はその欲につけこんで意地悪をしかけてきます。
ばかのイワンは欲がないので、悪魔が意地悪しても効果がありませんでした。
そして、ばかのイワンが王様になっている国の人々は、とても幸せそうです。
ばかのイワンの物語の背景とは違って、わたしたちには知識があって、資本主義のなかで生きています。
その中で、どうやって知識を使って楽しく生きるか、試されているような気がします。
少なくともシモンやタラスと同じようになってはいけないけれど、ばかのイワンのようにになるべきかというと、そうではないような気がします。
わたしたちそれぞれが、それぞれの生き方をもっていて、いろいろなバランスを絶妙にとりながら毎日を生きていく。
それそのものが答えのような気がします。
コーチングは楽しく生きるためのツールであり、上手く使うことでバランスがとりやすくなるのではないかなと思います。
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