そして、伊勢という場所
親友3人の旅に同行させてもらった話の続きです。
わたしたちは、高野山に続いて、伊勢神宮に行きました。
『「お伊勢さん」「大神宮さん」と親しく呼ばれる伊勢神宮は、正式には「神宮」といいます。
神宮には、皇室の御祖先の神と仰ぎ、私たち国民の大御祖神として崇敬を集める天照大御神をお祀りする内宮(皇大神宮)と、衣食住を始め産業の守り神である豊受大御神をお祀りする外宮(豊受大神宮)を始め、14所の別宮、43所の摂社、24所の末社、42所の所管社があります。これら125の宮社全てをふくめて神宮といいます。』
(伊勢神宮ホームページより)
伊勢に着いた日に外宮にお参りし、翌日に内宮にお参りしました。
上の写真が外宮で、こちらが内宮です。
平日にも関わらず、多くの方が参拝にいらっしゃっていました。
わたしが外宮と内宮で感じたエネルギーについて書くまでもないのですが、頭からつま先まで、エネルギーが体の内部を勢い良く通るような感覚でした。
その場にいるだけで自然と浄化されるのかなと思います。
高野山や伊勢神宮のことを思い出だすと、この世界には文字に落とし込めないものがたくさんあるなぁ、と感じます。
わたしたちは言葉にできないことだらけの中で、ツールとして言葉を用いています。
改めて、言葉はとても大切だと思います。
コーチングでは言葉をとても大切にします。
言葉で表現できないことを体感としてたくさん感じて、改めて言葉の重要性を認識する。
コーチングを学んでいくとそのように感じることが増えるのではないかな、と思います。
高野山で空海を感じる
思い返すと、この1か月間様々なことが起きました。
わたしにとって、コンフォートゾーンがずれていくとき、嵐のように感じる時があります。
嵐のような時期が、まだ続いています。
たとえ嵐でも慣れるもので、わたしは、嵐がやんでもやまなくても、どちらでも良いかなと感じています。
2月末から3月初旬、親友3人の旅に、途中からお供させていただいておりました。
大切な親友です。
言葉での表現に限界があるのですが、わたし含め4人それぞれが大きな変化を伴う旅に、一緒にいることができたことに感謝しています。
4人で和歌山県の高野山に行きました。
着いたのは夕方近くて、雪が残っていてとても寒かったです。
高野山は、空海がいらっしゃる場所ですね。
実際に強い“エネルギー”が感じられる場所です。
そこで感じた感覚としては、わたしにとっては空海が亡くなっているようには感じず、時空を超えて空海がそこにいらっしゃるように感じました。
奥の院では、空海がなんだかせわしなく忙しそうにされているようでした。
わたしたちが物理的空間で生きている以上、時間は存在するのですが、時空を超えた何かを感じることがあります。
時空を超えた何かを感じることができると、良い意味で、あまり時間に縛られなくなります。
時間だけに限らず、自分を縛るものが、少なくなるような感じがします。
自分を縛るもの、つまり“限界”を作っているのは、実は自分のマインドで、その限界はただの幻想です。
幻想だということを知っておくのと知らずに生きるのとでは、人生の楽しさが違ってくるように思います。
実はわたしたちは、自分で考えている以上に、何でもできるし何処へでも行くことができます。
眺めの良いエスカレーター
ときどき使う駅に、外の景色が良く見えるエスカレーターがあります。
その駅の改札は3階なので、いつも地上に降りるエスカレーターを使います。
写真はそのエスカレーターです。
左側は壁で、右側には景色が見ることができます。
不思議に感じていたことがあるので記事に書こうと思いました。
このエスカレーターのステップ幅は二人用なのですが、なぜかいつも異常に狭く感じます。
なぜこうも狭く感じるのだろうと思い、二人用のエスカレーターの幅について少し調べました。
二人用に関して言うと、手すり等を入れた全体幅は、メーカーや型により多少変わるようですが、実際に歩行するステップ部分の幅はどのエスカレーターもほとんど変わらないようです。
同じステップ幅のエスカレーターでも、屋内だと違和感がないのに、屋外になると狭く感じる。
このエスカレーターの設置場所は、屋外は屋外でも、見晴らしが良くてとても気持ちが良いところに設置されています。
なぜだろうと考えているうちにふと、エスカレーターに乗るときの自分の視線が異なることに気付きました。
このエスカレーターに乗るとき、わたしは、気持ちが良いので空を眺めたり遠くの景色を見たりしています。
「ゴール設定をしたときに、見える景色に似ているかもしれない」そう思いました。
コーチングでは、ゴール設定をします。
そして基本原則として、ゴールは、“現状の外側”に設定します。
“現状の外側”のゴールというのは、たった今達成できるものでもなければ、現状のまま未来を迎えた場合も達成し得ないもの、を指します。
“現状の外側”にゴールを設定して、ゴール側の臨場感を上げていくにつれ、“現状”は窮屈なものになっていきます。
コンフォートゾーンが変わるからですね。
エスカレーターが窮屈に感じた感覚は、見える景色があまりに気持ち良くて、現状を飛び出したくなる感覚によく似ているような気がしました。
「わたしったら、なんて狭いところにいるのだろう。宇宙は果てしなく広いのに。」
過去への執着をやめて、わたしたち自身が本当に心から欲するものを直視しようとする。
そうすることで初めて、わたしたち自身の力で立ち上がり、本当の人生を歩むスタートラインに立つことができるのかなと思います。
親を超える、ことの意味
コーチングの話でときどき、「親を超えなさい」と聞くことがあります。
どの分野でもいいから、一つの分野で親を超えてみなさい、と。
わたしたちは生まれてからこれまで、ある意味、洗脳を受けてきています。
世界中どこで生まれたとしても同じなのですが、最も強い洗脳力を持つのが親です。
わたしたちにとっての洗脳者であり、かつ、ほとんどの場合においてドリームキラーである親を超えなさい、ということです。
わたしは疑問に感じるのですが、みなさんはどのように感じるでしょうか。
疑問に感じる気持ちの中心に何があるかというと、コーチングの大原則の一つとして存在する「比較しない」という考えがあります。
「比較しない」ことがコーチングの大原則の一つなので、「ナンバーワン」や「〇〇トップ」などの表現を使っているコーチがいたら、コーチングを間違って理解している可能性があるということになります。
誰かを超えるという考えの中には、「比較」が存在します。
親を比較対象にすることは、わたしにはできません。
収入も、学歴も、肩書も、正直なところどうでも良いです。
わたしたちはわたしたち、親は親、別の人間です。
親のみならず誰であっても比較対象にする必要はなく、比較しないことで初めて本物のゴールに近づくことができます。
比較対象が存在しているあいだは、本物のゴールが見つかりにくいのではないかと思います。
では、「親を超える」ことの意味を、今一度わたしなりに解釈しようと思います。
良くも悪くも、親による教育という名の洗脳がなければ、今のわたしたちは存在していません。
そして今、わたしたちは、親は善意のドリームキラーになりやすいもので、日本では奴隷でいることを良しとする文化があるということを理解しています。
それは親だけの責任で済ませられる問題ではありません。
仕掛けている何ものかが存在しています。
このことを心から理解すれば、親のどんな言動に対しても、愛情が湧くのではないかと思います。
この、親に対する愛情が、言いかえると、「親を超える」の真意ではないかなと思います。
そこには比較は存在しません。
認知的不協和を生じさせる
“認知的不協和”は社会心理学用語である“cognitive dissonance”の和訳で、レオン・フェスティンガーが提唱した理論です。
一人の人間が、二つの矛盾した認知を持った場合、ストレスや不快感が生じます。
その結果人間は、そのストレスを解消もしくは軽減しようとして、行動したり認知を変化させます。
“認知的不協和”は決して特別なものではなく、日常的によく起きています。
よく例で挙げられるものがいくつかあるのですが、今回はイソップ寓話の『狐と葡萄』を例に挙げます。
物語のあらすじを書きます。
狐が、木の枝を這っている葡萄の蔓から、熟したブドウが垂れているのを見つけます。
狐はその葡萄が食べたくて食べたくて、飛び上がったり助走をつけて飛んだりして、何度も何度も取ろうとします。
でも、どうやっても葡萄を取ることができませんでした。
狐は「おれは何て馬鹿なんだ。あんな葡萄、値打ちもない酸っぱい葡萄なのに。」と言いながら去っていきます。
この物語の場合、狐の「葡萄を取りたい」という欲求と、「葡萄が手に入らない」という事実は矛盾し、認知的不協和が生じています。
この認知的不協和を解消するために、狐は「葡萄は酸っぱくて値打ちがない」というふうに葡萄に対する認知を変えています。
「あの葡萄は酸っぱいから取らない」ということですね。
この例の場合は合理化に当たりますが、コーチングでは認知的不協和の解決方法としてネガティブな合理化を目的としていません。
コーチングにおいて、「現実のリアリティ」と「ゴールのリアリティ」は必ず矛盾し、認知的不協和が生じます。
この、コーチングにおける認知的不協和状態において、ネガティブな合理化(認知の変更)をするのは簡単にできることです。
例えば、ゴールに向かわない理由として、リスクを挙げるときりがないですよね。
コーチングでは、シンプルに「ゴールのリアリティ」を高めて、ゴールへ向かうようにコーチがお手伝いします。
とてもシンプルです。
言い方を変えると、コーチングは認知的不協和を次々と生じさせることで、みなさんがゴールに近づくことができるように働きかけるものと言えます。
また、認知的不協和が全く生じていない状態というのは、「現状の内」ということになるので、ゴールを設定しなおす必要があるということです。
コーチングの過程で、認知的不協和は、当然生じるものです。
認知的不協和によるストレスや不快感を、「人間ってすごいな」と、逆に面白く感じていただければいいなと思います。
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