片付けと過去
ここ1週間ほどの間に書いて投稿していなかった記事を、順次投稿します。
現部屋の片付けがラストスパートに入りました。
わたしは勝ち負けをあまり好みませんが、半ば過去の自分に勝つべく、部屋にあるモノと対峙しています。
モノを片付けていると、嫌でも過去の自分と向き合う必要が出てきて、過去の自分が目の前にいるような感覚の時があります。
あるモノを捨てるかどうか決める際には、完全に未来に立ち、未来の自分にとってそれが必要かどうかを決めるようにしています。つまり、未来のコンフォートゾーンにおいて、そのモノが存在するのかどうかを見ています。
そうなってくると、容易に予想できますが、実はほとんどが過去のモノであり、未来においてそれらは必要ないのではないかと思えてきます。
未来からの視点を持つと同時に、一つ一つのモノたちにとって、どうあるのがベターなのか考えながら作業しています。
わたしは、使っていないモノがあれば、使ってくれる人に譲る方がモノが生きると思います。
できるだけ全てのモノが生きることを考えると、随分いろいろなモノが次の持ち主のところへ行きました。
いま部屋にある持ち物の中で一番古いものを考えてみると、19歳のころに親に買ってもらったスケート靴かなと思います。
アイスホッケーをしていた時期が少しだけあり、防具はかなり前に現役選手にゆずりました。
スケート靴は、スニーカーなどよりもはるかに各個人の足型になるので人に譲れるものでもなく、ずっと持っています。
アイスホッケーを始めたとき、妹の一人と一緒に始めたのですが、防具一式とスケート靴は決して安いものではありません。
わたしの実家は一般家庭で、子供を甘やかせる余裕は全くなかったはずなのに、何も言わず大阪のアイスホッケー道具のお店に連れて行ってくれた親は本当に凄いなと、ずっと感謝しています。
なんとなくわたしのスケート靴は良い気をまとっており、対峙できないので、持っていようと思います。
『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』
『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』(Batman v Superman: Dawn of Justice)を観ました。
Ben Affleck(バットマン)、Henry William Dalgliesh Cavill(スーパーマン、クラーク・ケント)は素敵としか言いようがなく、スパーマンの恋人役であるAmy Lou Adams(ロイス・レイン)もなんとも魅力的です。この映画で、Henry William Dalgliesh Cavillのファンになりました。
他に注目すべき登場人物として、レックス・ルーサーJr.がいます。
わたしはまだこの映画のストーリーの理解が不足しているのでまた観たいと思っているのですが、今回感じたことを一つの視点から書こうと思います。
あくまでもわたしの視点のうち、一つの視点に限って書きます。
わたしはこの映画で、ヒーローが「善(正義)と悪」の間を行ったり来たり彷徨って描かれているように感じました。
スーパーマンは基本的に「善(正義)」にいるのですが、葛藤しているように見えます。
バットマンは、善と悪の間をまさに彷徨っているように見えます。
レックス・ルーサーJr.は今回の位置づけとしては「悪」として存在してるように見えます。
本来はヒーローというのは迷いをもたないのかもしれませんが、スーパーマンとバットマンの人間味のある部分が、わたしには魅力的にうつりました。
言いたいことは、わたしたちが、人生において決めるべきことは「何を選ぶか」だけだと思います。
わたしたちは、なんでも選ぶことができ、人生の選択においては善悪というものは存在しません。
本当の意味で‟自分自身で”選択すること、それが人生の全てです。
わたしたちの選択は(他人に危害を加えるものでない限り)全て正しいです。
want toの強さ
わたしの妹たちのうち、一人はプロの陶芸家です。
大学院を卒業してからある会社に就職し、そちらで数年間会社員をしたのち、退職しました。
数年間の会社員のころ、彼女はhave toで仕事をしていました。
そして退職後、want toで動き始めました。
わたしはコーチとして彼女と関わっているわけではなく、妹たちはコーチングに興味がありません。
want toで立ち上がったのは彼女自身の力なのですが、彼女を見ていると「want toの強さ」をしみじみと感じます。
まさに「生き返った」という印象で、曜日関係なしに楽しそうで、忙しそうにしています。
want toで動き始めた人間というのは強く、ゴール設定もクリアで、話を聞いていてすがすがしいものがあります。
インターネット上に情報を載せていないので、ここで御紹介させてください。
9月末から、彼女が京都で個展を開きます。
もしお近くにお住いの方がいらっしゃいましたら、「want toの強さ」を見に行っていただければと思います。
彩りの器ーColoring Ware FUMI NAKANISHI Exihibition
Gallery Maronie3階(京都市中京区河原町四条上る塩屋町332)
2016年9月27日(火)~10月2日(日)
結婚ー①結婚観
数ヶ月前にコーチの友人が書いていた結婚に関する記事が面白かったので、わたしも書いてみようと思い立ちました。
第一弾ということで、結婚観とします。
30代で結婚していなくて、かつコーチのライセンスのあるわたしが書くと、おそらく面白いのではと思いました。
人間は日々変化しており、わたしも毎日変化しているので、”現時点”での”わたしの”結婚に対する考えを書いてみます。
わたしは、日本の儒教文化から99%脱洗脳している状態ですので、「日本の常識」から考えると非常識であることを始めに書いておきます。
(1%はわたしのスコトーマ分です。)
はじめに、一言でいうと、結婚に対してあまり興味がありません。
結婚という法的な形式には興味がありませんが、人生を共に歩むことのできる人がいると楽しいと思います。
男性に言われる可能性のあるセリフとして、いろいろなシチュエーションを想像しており、面白いのでわたしの思考を紹介します。
全て思いついたものではなく、日本の女性がキュンとするらしい、プロポーズの言葉からピックアップしたものもあります。
①男性に、「結婚したら仕事をやめて専業主婦になってほしい」と言われた場合。
➡「ぷはっ!」と笑って、いったん席を立ってパウダールームに行き、戻ってから丁重にお断りするかもしれません。「わたしにはmissionがあるので」と。
②男性に、「君を幸せにするよ」と言われた場合。
➡「わたしはすでに比較的幸せなのですが、それでもよいでしょうか」と答えるかもしれません。
③男性に、「俺について来てくれ」と言われた場合。
➡「あなたは、わたしについて来れますか」と答えるかもしれません。
④男性に、「君のために生きたいと思う」と言われた場合。
➡「わたしのために生きていただくことは、わたしにとってそれほど喜ばしいことではないので、もう少しだけ抽象度を上げていただけますでしょうか」と答えるかもしれません。
①~④をながめると、儒教文化の中では、自分はなんと小難しいのだろうと思います。
要するに、わたしは男性と女性が対等だというのが当然の認識であり、儒教文化が色濃く存在する日本においては浮いてしまいます。
ある人との結婚が本当に必要だと判断した場合は、こちらからお願いする可能性が高いのかもしれないなと思います。
そして、結婚が本当に必要な状況というのは、実際のところ実はあまりないような気もします。
結婚という法的な形式はどうであれ、御縁があって一緒に人生を歩むことになった人とは、お互いのスコトーマを外し、かつお互いのエフィカシーを上げることができればいいなと思います。
スコトーマ祭②
スコトーマ祭の第二弾として、日本の医学について書きたいと思います。
なんとなくこれまで、あまり医療の記事を書かないようにしていたのですが、少しずつ書いていこうと思います。
日本の医学部では「医学」を学ぶのですが、どうも一般的にあまり知られていないことのようなので、はっきり書きます。
日本の医学部で学ぶのは「西洋医学」であり、「東洋医学」は学びません。
医師国家試験も西洋医学に基づいたものであり、東洋医学についての試験問題はありません。
少なくとも私が学んだ段階ではそのような状況でした。
大学によっては数時間、東洋医学の授業がある大学もあるようですが、“東洋医学の紹介”のような授業内容のようです。
結果として、日本の医師免許を持っている人間にとっては、「東洋医学」はスコトーマになっています。
漢方薬に関しては、処方薬としてもありますし、詳しい医師はたくさんいらっしゃいます。
ただ、学問というのは“体系”ですので、漢方薬のみを深く学んでも“体系”にはなり得ません。
医師が「西洋医学」という体系しか学んでいないことは、日本の医療がこれから考えていかなければならない問題だと、わたしは考えています。
正直なところ、わたしとしては、大問題だと考えています。
日本の医師の中で、このことに問題意識のある人間がどれほどいるのかわからないのですが、おそらく少なからずいると考えています。
なぜならば、西洋医学は素晴らしいけれども、限界が明らかに見えているからです。
少し自分のことを書きますが、研修医のときに何科の医師になるか迷った期間がありました。
いまの日本では、医師国家試験合格後、2年間初期臨床研修の期間があります。
2年間の初期臨床研修期間で複数の科をローテートし、その間に専門を決め、3年目に専門科の医師として働き始めます。
2年間複数の科を経験しても、浅く学ぶことしかできないので、研修期間をどうすればより良いものになるのだろうかということを時々考えます。
10数年前までは初期臨床研修期間が存在しておらず、そのころは医学部を卒業すると同時に大学の医局に入局するというのがスタンダードでした。
ただ、わたしにとっては研修期間が設けられたことで学生の頃に考えていた専門とは異なる科に進んだのは事実で、多くの素晴らしい医師の方々と出会うことができたのもかけがえのない経験です。
研修期間中に、“治す”ということに限界が見えたのを覚えています。
そして、わたしは“治す”ということを目的としない麻酔科を選びました。
実際は、研修期間中に恩師から学んだ手術室麻酔はとても楽しくて、そのときの恩師に常々心から感謝しています。
人生において楽しさを教わることはそれほど度々あることではなくて、それはなぜかというと、日本では仕事を心から楽しんでいる人が少ないからだと思います。
少し脱線しましたが、西洋医学で“治す”限界があると考えている医師は少なからずいます。
日本医療はそろそろ本気で、東洋医学を含め他の医学の学問体系をスコトーマから出すことが必要なのではないかと思います。
日本の医師達が気付き始めている以上、日本医療は、世界中に存在する医学に関する学問体系を正視する時期がそろそろ来るのではないかと考えます。
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