六畳一間
在宅医療に関する記事を数回に分けて下書きで書いていたのですが、壮大すぎるテーマで、今日は中断しました。
今回はわたしにとって書きやすいものを書こうと思います。
ここ1年ぐらいの間に、在宅医療のお話を聞く機会がとても増えた印象を受けています。
先日、在宅医療に携わっていらっしゃる医師の方とお話をする機会がありました。
正直なところ、びっくりすることばかりで、スコトーマ(盲点)をたくさん外してくださったことに感謝しています。
その方からお聞きしたお話で印象に残ったことはたくさんあるのですが、今回は一つだけ書こうと思います。
「人間最後は六畳一間」
という言葉で、最後か最期か、難しいと思いながら書いています。
人間長生きしていると、最終的には六畳一間で良くて、あとはトイレがいかに近い場所にあるかとか、お風呂がどこにどんな風にあるかなどが問題になってくるというお話でした。
この話はわたしにとって、とても印象に残りました。
わたしの父方のお祖母さんが、数年前に93歳で亡くなりました。
実家に「おばあちゃんの部屋」があって、そこで座った状態で意識がなくなっていました。
そのとき実家には父と母と妹一人がいて、夕飯の支度ができ、お祖母さんを呼びに行ったときに意識がなくなっていたと記憶しています。
実家の家族から電話があって、救急車を呼んで市内の大きな病院にいるということでした。
その後、確か、「なんとかバイタル(血圧、脈拍、酸素飽和度)を保っているが、バイタルが落ちてきたときに延命措置をするかどうか」、医師に聞かれていると電話がかかってきました。
CTを見た医師の話によると、おそらく既に頭蓋内に血種ができていて、それが再出血したのではないか、という話でした。
わたしに医師免許があるというだけで祖母の延命措置を決めることはできないので、息子である父親がどうしたいか決めてください、とお願いしたような気がします。
93歳の祖母の身体がどんな風かわたしも知っていて、亀背の小さい体で、血管も細くて脆くて、アグレッシブな医療はすべきではないと思う反面、0.00…%の確率で助かるのであればという思いもありました。
父親は延命措置を拒否しました。
今でも、わたしにとって、彼の決断は尊敬に値します。
正しいかどうかではなく、予測できない緊急事態で動転している中、よく決断したなと心から思います。
話を戻しますが、実家の「おばあちゃんの部屋」は、まさに六畳ぐらいで、そこに箪笥が二つと押入れがありました。
逆に言うと、それ以上のモノを、彼女は持っていませんでした。
トイレまですぐ近くなのに漏らすこともあったりして、大変そうだったなぁと思い出しました。
お風呂場も近くにあり、誰の助けも借りずに入っていましたが、お風呂場に上る段差がとても高かったように思います。
「人間最後は六畳一間」という短い言葉の中に、たくさんの意味が詰まっています。
93歳というほぼ一世紀を生きた方のことを、とてもたくさん思い出しました。
コーチング的には、わたしがいま記述したことは瞑想の一つに当たります。
瞑想には方法がたくさんありますが、瞑想することは、抽象度を上げるトレーニングになります。
ぜひ、ときどき瞑想して、抽象度のコントロールの仕方を身につけていただければと思います。
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