愛欲と社会的情動
愛欲と社会的情動の違いについて考えたいと思います。
簡単に言うと、愛欲は抽象度の低い愛であり、煩悩の一つです。
愛欲が、世間一般で認識されている愛情ではないかと思います。
一方、社会的情動は、抽象度の高い愛であり、”慈悲”とも表現されます。
社会的情動について、苫米地英人博士の著書でよく出される例として、線路の切り替えの例があります。
アメリカでの実験です。
「あなたがプラットフォームにいるときに電車が走ってきて、線路の切替機を切り替えないと、その先に立っている人が一人死ぬ場合、あなたはどうしますか?」という質問に対し、100人中100人が「走って切り替えに行く」と答えました。
自分が死ぬ可能性よりも、1人でも助かる可能性を選ぶ、これが社会的情動です。
さらに、「線路の切替機を切り替えないと一人死ぬが、切替機を切り替えた場合にはその先に五人の人がいる場合、あなたはどうしますか?」という質問に対し、ほとんどの人が混乱して答えを出せませんでした。
どちらを選んでも死ぬ人がいる場合、答えを出せない、判断できない、これが論理を超えた愛であり抽象度の高い愛である、とあります。
ここからは私の考えですが、一般的に人間は年を重ねるごとに愛欲から社会的情動へと愛の抽象度が上がる印象を受けます。
より詳しくいうと、愛欲と社会的情動の割合のうち、社会的情動が増えてくるという印象です。
例えば、若い年齢で経験する「誰かを好きになる」という情動は典型的な愛欲であり、煩悩であり、抽象度の低い愛情です。
良い悪いではなく、人間として、子孫を残すための性欲とつながることを考えると、愛欲を持って当然のものです。
また、「結婚して恋人から家族になってしまった」という表現を聞くことがありますが、いつまでも煩悩である愛欲のみでは進歩していないとも言え、家族としての社会的情動になるというのは愛の抽象度が上がっていることになります。
熟年離婚という言葉がありますが、愛情の抽象度を理解していないこともあるのではないかと思います。
1人の人間に対し、愛欲から社会的情動まで、さまざまな抽象度の愛を持って良いものであり、「愛欲がなくなったから冷めた」という簡単なものではないです。
線路の切替機の話に戻りますが、上記の、どちらを選んでも死ぬ人がいる場合、判断できない。これが人間として抽象度の高い社会的情動です。
どんなときでも論理的に判断できるのが良いのではなく、迷うべきところで迷えることが人間の素晴らしいところだと言えます。
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