201609.25

結婚ー③夫婦が互いのコーチでいられるかという問題

Post by 中西千華 2016年9月25日

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これまで結婚というテーマで、結婚観、婚活について書きました。

今回は「夫婦が互いのコーチでいられるかどうか」について考えます。

このテーマについて考え続けた結果の、現時点でのわたしの意見を書きたいと思います。

結論を先に書くと、わたしは、難しいと考えます。

夫婦が互いのコーチでいられる可能性としては、今の日本では1%未満ではないかと思います。

難しいと考える理由として、3つ挙げます。

①夫婦のどちらかだけがコーチングに興味を持っている可能性が高い。

②夫婦は毎日一緒に生活をする関係であり、しかも数十年にわたる関係である。

③コーチングそのものの性質。

これらのうち、一番大きい理由としては①だと考えます。

日本で夫婦同時にコーチングに興味を持ち、深く学んでいる、もしくは学ぼうとしている場合というのは、今の日本では極めて稀である気がします。

この、夫婦ともにコーチングに興味があるという稀なパターンに当てはまる場合は、夫婦同士のコーチングは上手くいく可能性があります。もしくは、コーチングに興味があるのが片方であったとしても、もう片方がコーチのような素質をもっている人間である場合も、上手くいく可能性があります。

「コーチのような素質をもっている人間」というのは、分かる方には分かると思いますが、コーチングには全く興味がないにも関わらず、コーチのような人が非常に稀にいらっしゃいます。とても少ないですが、わたしの親友にも一人います。

話を戻します。

夫婦のうち片方のみがコーチングに興味を持っていると何が起こるかというと、相手にもコーチングを理解してほしいという欲求が生まれます。

わたしもコーチングを学び始めた当初は、周りの人たちに知ってもらいたいと感じましたが、人間には生き方を選択する権利があります。

そして、コンフォートゾーンから出ることなく生きていくというのも一つの選択です。

大切な人たちにコーチングを理解してもらいたいと思って一石を投じてみるのは良いと思います。ただ、相手に響かなかった場合に、どうしても理解を得たいと頑張ってしまうと、相手の選択を否定することにつながります。

相手の選択を否定するということは、そもそもコーチの役割から大きく外れてきます。

以上が①の説明です。

②については文面そのままで、例えば、1~2週間に1回しか会わない関係であれば良いかもしれないのですが、一緒に数十年生活をしていると色々なことが起きます。

実際は夫婦それぞれ別々の時期に、生き方に大きく影響を与える出来事が起きることが予測されます。

そして、それらの出来事の中には、互いのコンフォートゾーンを揺らがすようなことも出てきます。

相手の変化が自分のコンフォートゾーンに影響する場合に、それでも常にコーチのような意識でいられるかというと、どのくらいの人がそれに耐えられるだろうかと疑問に感じます。

反射的に自分のコンフォートゾーンを守ろうとするのが普通の反応であり、そうなるともはや相手の変化に耐えられず、コーチングは難しくなります。

③のコーチングの性質については、ラポールというものが大きく関わってくると考えます。

コーチングにおいては通常はラポールが生まれ、その中でも特に「ハイパーラポール」という少し特殊な信頼関係が生まれます。

ハイパーラポールの方向性は定義上一方向であるので、夫婦間で双方向に生じることが考えにくいことを考慮し、ここではラポールについて考えます。

ハイパーラポールが定義上考えられない時点で、難しいと言わざるを得ないのですが、話を進めます。

夫婦のラポールを考える場合、一緒に生活し、臨場感空間を共有しているからといってラポールが生まれるわけではありません。

毎日顔を合わせることで、ほんの少しの不満からほつれが出始め、ラポールが簡単に崩れる可能性があります。

夫婦間でラポールが長期間にわたり維持できる可能性がどのくらいあるのか考えると、これはわたしの印象にすぎませんが、一定の長期間を超えて「偽りのない」ラポールを維持できた夫婦は、その後も維持できるのかもしれないなと感じます。

以上、①~③の要素を考慮すると、現時点の日本においては、可能性として1%未満が妥当かなという結論になりました。

もちろん、夫婦同士でお互いの未来を話し合いながら生きていくことができれば理想的です。

ただ、わたしの意見としては、「相手自身の選択を最重要のものとし、自分の欲求を押し付けない」ことはとても大切だと思います。

なお、アファメーションに組み込んで強く信じれば・・・とよぎった方のために念のため書きますが、アファメーションは一人称です。

他人に変わってもらいたいという欲求は煩悩であり、アファメーション作成のルールから大きく外れます。

最後になりますが、「子供」については、夫婦とは全く別次元の問題であり、次の機会に考えてみようと思います。

201609.21

結婚ー②婚活

Post by 中西千華 2016年9月21日

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先日は結婚観について書きました。

今回は婚活についてです。

「婚活」というのは、当然ながら「婚活ビジネス」というビジネスにすぎません。

本気で心から「結婚で女性を幸せにしたい!」と考えながら婚活ビジネスに従事している人がいるとしたら、その熱い気持ちは妄想だと言わざるを得ない気がします。

「結婚式終了までの期間だけ短期間だけ女性を幸せにしたい!」なら理解できるような気がします。

まずは女性の婚活について、婚活コンサルタントの方々が発信している情報を読んでいました。それぞれに対しわたしの考えを記載してみます。

「自然な出会いなど絶対にありません」

➡︎あります。

「婚活にもさまざまな形の「成果」があるのだと思ってください」

➡︎自分のメリットとしての「成果」が欲しいのならば、婚活を介在させる必要はない気がします。

「婚活は、なにより自分磨きのツールだと考えてください」

➡︎同上

「そうやって自分を磨いていけば、それに見合う“ランクアップ”した出会いも生まれます」

➡︎そもそも“ランク”とは何でしょうか。相手の年収や肩書が“ランク”ならば、結婚というものを根本的に勘違いしている可能性があります。

「セミナー受講者の中には、40代半ばで彼氏をゲットした人もいます」

➡︎40代でも50代でも60代でも70代でもそれ以上でも魅力的な人は魅力的で、そういう人たちは自らがやりたい事やすべき事をしています。歳をとると彼氏や彼女ができにくくなるという考え方は、違うような気がします。

「人間的に合わないというのではない限り、男性との関係は“グレー”にしておく、のが鉄則です」

➡︎正直言って、グレーな関係だらけの人間に、たいした魅力はないと思います。

以上、主観的なコメントをつけましたが、コンサルタントの言葉は、まさにビジネスという印象を受けますね。

日本中の人たちが婚活をビジネスとして見ていると良いのですが、婚活をビジネスとしてではなく本気で幸せになるための手段だと思っている人たちがたくさんいる可能性を考えると、危険な感じがします。

男性の婚活についても調べてみたのですが、女性と比較して情報がかなり少ない印象を受けました。

男性の場合は30代後半、40代になって、「なんとなく寂しくて、結婚を考えようかな」と考え始めて、しかも「折角なら20代の可愛い子がいいな」と考えて婚活ビジネスにアクセスしているような印象を受けます。

儒教文化の色濃い日本において、女性と男性では、結婚に対して求めているものが異なるのだろうなと思います。

婚活はさておき、資本主義社会における多くのモノやサービスは、誰かが利益を得るために世に出されたものであり、そのことを常に忘れずに、うまく利用することが必要だと感じます。

そのためには、一つ一つのモノやサービスの「本質」を見ようとする習慣が大切だと思います。

201609.06

結婚ー①結婚観

Post by 中西千華 2016年9月6日

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数ヶ月前にコーチの友人が書いていた結婚に関する記事が面白かったので、わたしも書いてみようと思い立ちました。

第一弾ということで、結婚観とします。

30代で結婚していなくて、かつコーチのライセンスのあるわたしが書くと、おそらく面白いのではと思いました。

人間は日々変化しており、わたしも毎日変化しているので、”現時点”での”わたしの”結婚に対する考えを書いてみます。

わたしは、日本の儒教文化から99%脱洗脳している状態ですので、「日本の常識」から考えると非常識であることを始めに書いておきます。

(1%はわたしのスコトーマ分です。)

はじめに、一言でいうと、結婚に対してあまり興味がありません。

結婚という法的な形式には興味がありませんが、人生を共に歩むことのできる人がいると楽しいと思います。

男性に言われる可能性のあるセリフとして、いろいろなシチュエーションを想像しており、面白いのでわたしの思考を紹介します。

全て思いついたものではなく、日本の女性がキュンとするらしい、プロポーズの言葉からピックアップしたものもあります。

①男性に、「結婚したら仕事をやめて専業主婦になってほしい」と言われた場合。

➡「ぷはっ!」と笑って、いったん席を立ってパウダールームに行き、戻ってから丁重にお断りするかもしれません。「わたしにはmissionがあるので」と。

②男性に、「君を幸せにするよ」と言われた場合。

➡「わたしはすでに比較的幸せなのですが、それでもよいでしょうか」と答えるかもしれません。

③男性に、「俺について来てくれ」と言われた場合。

➡「あなたは、わたしについて来れますか」と答えるかもしれません。

④男性に、「君のために生きたいと思う」と言われた場合。

➡「わたしのために生きていただくことは、わたしにとってそれほど喜ばしいことではないので、もう少しだけ抽象度を上げていただけますでしょうか」と答えるかもしれません。

①~④をながめると、儒教文化の中では、自分はなんと小難しいのだろうと思います。

要するに、わたしは男性と女性が対等だというのが当然の認識であり、儒教文化が色濃く存在する日本においては浮いてしまいます。

ある人との結婚が本当に必要だと判断した場合は、こちらからお願いする可能性が高いのかもしれないなと思います。

そして、結婚が本当に必要な状況というのは、実際のところ実はあまりないような気もします。

結婚という法的な形式はどうであれ、御縁があって一緒に人生を歩むことになった人とは、お互いのスコトーマを外し、かつお互いのエフィカシーを上げることができればいいなと思います。

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