続 先生、とは

「先生」について続きを書きます。
うっかり忘れそうになりましたが、わたしは医師として働いているときは職場で「中西先生」と呼ばれることが多いです。
日本の医学教育は不思議で、大学を卒業して研修医になると同時に、「先生」と呼ばれます。
もっというと、医学部の学生、5年か6年あたりで臨床の見学をする期間があるのですが、この時点で「先生」と呼ばれます。まだ医師免許もない、ただの学生です。
研修医になって「先生」と呼ばれ始めたころは、自分は医師になったのだな、と思った記憶はありますが、なかなか違和感がありました。
医師になって4年目ぐらいの時、「先生と呼ばないでほしい」と、ある看護師に本気でお願いしたことがありますが、「だったら何て呼べばいいのよ!」と本気で怒られた記憶があります。
ため口で怒れるぐらいの仲ですから、名前でいいし、ニックネームでもいいし、なんでもいいわけです。
そもそもある限られた職種に対して差別用語を使う必要はないはずです。
わたしは医師に対して、「日本における礼儀」として「先生」と呼びますが、自分の中では礼儀正しい(とされる)ニックネームのように考えています。
自分がもし、完全に儒教文化にどっぷり浸かっていたら、わたしはここでこの記事を書いていないのだろうな、と思います。
先生、とは

「先生」という言葉の危険性について、確認したいと思います。
日本では、さまざまな教師、政治家、医師、弁護士、作家などに対して 「先生」と呼ぶのが常識的かつ礼儀正しいこととして教えられています。
なんの疑問を持つことなく、「先生」という言葉を使っていると思います。
苫米地英人博士の著書の中にも書かれていますが、「先生」は儒教からきている、差別を生み出す言葉です。
わたし自身、中学生のときに、「先生、は先に生まれると書き、先に生まれた人を敬うように」と「先生」から学んだ気がします。
ここで、疑問を抱いていただきたいです。
…それは、本当なのか?
…先に生まれたから、敬うのか?
…「先生」はなぜ偉いのか?
…本当に偉いのか?
わたしは、違うと思います。
わたしは人間は平等に尊いと思います。
「先生」という、汎用性の高い差別を生む単語は、欧米には存在しないような気がします。
みなさんによく考えていただければと思います。
ゴールの向こう

今回は、ゴール設定における大切な考え方を書きたいと思います。
ゴールを考える際に重要なのは、設定したゴールの向こう側を「意識」することだと、わたしは考えています。
ゴールを達成したときに、どんな光景が見えて、次なるゴールがどのように見えるだろうかと「意識」することです。
ゴールの向こう側はもちろん見えなくても良くて、意識しておくことが大切です。
わたしは、どんなに抽象度の高いゴールであっても、その向こう側が必ずあると考えています。
情報空間には限界がなく、わたしたちには死ぬまで無限大の可能性があることを、是非おぼえておいてください。
臨場感
今日は携帯の目覚まし音で起きることができず、起きるのが少し遅くなりました。
昨日の夜に、海外TVドラマを観たことや、夜食を食べたことを思い出しました。
観ていた海外TVドラマを紹介すると、「グレイズ・アナトミー」です。
ここ数年観るのをやめており、久しぶりに続きを観ました。
ストーリーの途中で、医師達がのったチャーター機の飛行機事故が起きます。
その事故の臨場感が非常に強く、ドラマだとわかっているのに、なんだか観れなくなってしまい、観るのをやめていました。
好きな医師達が数人、ストーリー上で亡くなったのです。
その役者さん達が出ている他の映画を観ればいいのではないかとも考えつきますが、なんだか、それではダメで、不思議なものだなと思います。
それだけ、「グレイズ・アナトミー」が創り出した臨場感空間が、わたしにとって強かったのだと感じます。
ヒューマンドラマだけでなく、手術の描出の仕方や、医師達の判断の仕方に違和感がほぼなく、面白いドラマです。
久しぶりに観て、ここから観ていないと思ったvolは、確実に3回ぐらい観ているシーンで、記憶はあてにならないなと感じながら観ていました。
今日も、観ようと思います。
メディア

わたしはテレビを持っていません。
勤務先にテレビがあることが多いので、休憩時間にニュースやバラエティ番組が目に入ってくることがあります。
みなさんもご覧になったかもしれませんが、今日はある医師に関するニュースがありました。
わたしは、びっくりしましたし、メディアの取り上げ方にもショックを受け、いろいろなことを考えていました。
いろいろなことを考えている中で、やはり、このニュースにとどまらず、メディアの報道の仕方の問題について考えていました。
映像という視覚から入ってくる情報、しかも感情に訴えかけるような操作性の高い言葉には、人間は強い影響をうけるのだということを改めて感じました。
わたしはふだん、動揺することはあまりないです。
でも、今日はたった1分弱ぐらいのニュースを見ただけで、ほんのわずかに動揺が起きました。
同職者に関するニュースだからというわけではなく、それ以外の部分で、自分は完全に操作されているということが感覚的にわかりました。
わたしのブログを読んでくださる方で、テレビを見る方は少ないとは思いますが、もしテレビを見る方がいらっしゃいましたら、その情報の裏を、常に読むようにしていただきたいです。
テレビのみならず新聞など、あらゆる情報には裏、つまり情報発信者の意図があります。自分に何かしら強い感情がわいてきたら、99%操作されていると言っても過言ではないと思います。
わたしたちが考えている以上に、わたしたちを操作するために、情報は操作されています。
一次情報を除けば、本当の真実を伝えてくれるような、親切な情報は世の中にあまり存在しません。
逆に言うと、真実を知るには、一次情報に接する必要があると言えます。
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