親を超える、ことの意味
コーチングの話でときどき、「親を超えなさい」と聞くことがあります。
どの分野でもいいから、一つの分野で親を超えてみなさい、と。
わたしたちは生まれてからこれまで、ある意味、洗脳を受けてきています。
世界中どこで生まれたとしても同じなのですが、最も強い洗脳力を持つのが親です。
わたしたちにとっての洗脳者であり、かつ、ほとんどの場合においてドリームキラーである親を超えなさい、ということです。
わたしは疑問に感じるのですが、みなさんはどのように感じるでしょうか。
疑問に感じる気持ちの中心に何があるかというと、コーチングの大原則の一つとして存在する「比較しない」という考えがあります。
「比較しない」ことがコーチングの大原則の一つなので、「ナンバーワン」や「〇〇トップ」などの表現を使っているコーチがいたら、コーチングを間違って理解している可能性があるということになります。
誰かを超えるという考えの中には、「比較」が存在します。
親を比較対象にすることは、わたしにはできません。
収入も、学歴も、肩書も、正直なところどうでも良いです。
わたしたちはわたしたち、親は親、別の人間です。
親のみならず誰であっても比較対象にする必要はなく、比較しないことで初めて本物のゴールに近づくことができます。
比較対象が存在しているあいだは、本物のゴールが見つかりにくいのではないかと思います。
では、「親を超える」ことの意味を、今一度わたしなりに解釈しようと思います。
良くも悪くも、親による教育という名の洗脳がなければ、今のわたしたちは存在していません。
そして今、わたしたちは、親は善意のドリームキラーになりやすいもので、日本では奴隷でいることを良しとする文化があるということを理解しています。
それは親だけの責任で済ませられる問題ではありません。
仕掛けている何ものかが存在しています。
このことを心から理解すれば、親のどんな言動に対しても、愛情が湧くのではないかと思います。
この、親に対する愛情が、言いかえると、「親を超える」の真意ではないかなと思います。
そこには比較は存在しません。
reader読者登録
ブログ購読をご希望の方はこちらからご登録ください。