ゲシュタルト
最近、ゲシュタルトについて考えることがあります。
ゲシュタルトの説明の仕方はいろいろあるのですが、苫米地英人氏の説明を二つ引用します。
「低い抽象度でばらばらなものが、抽象度が上がると一つの整合的なものにになる。」
「不完全なものや一部分からなるものに接したとき、矛盾や不一致を減少させ、全体・全容をとらえる脳の機能のこと。」
たとえば、わたしたちのふだんの会話で、単語をいくつか聞き逃しても自らの頭の中で分をつなげて全体の文脈をつかむことができます。これは「日本語」というゲシュタルトをわたしたちが持っているからです。
わたしは関西出身なのですが、標準語で話しているときと、関西弁で話すときとで、言語が完全に切り替わります。
これは「日本語」というゲシュタルトを持っている中に、さらに「標準語」と「関西弁」のゲシュタルトがそれぞれ(おそらく独立して)存在しているのだと思います。
さらに考えると、標準語バージョンの自分と、関西弁バージョンの自分がいるので、言語の範疇をこえたゲシュタルトが自分の中にあるように感じます。
標準語を話している最中に関西弁が出たり、関西弁を話しているときに標準語が混じったりしたときには、なにか枠外に出てしまったような感覚を感じます。
わたしは混んでいるスーパーマーケットが苦手で、早朝だと空いているので今朝4時過ぎにスーパーマーケットに行きました。
早朝の生鮮売り場はスタッフがすごい勢いで商品を並べていて、通り道に困るぐらい段ボールが通路に置いてあります。
新しい商品や並べ直す必要のある商品があるはずで、「ゲシュタルトの微調整をしているなぁ」と思いながらアイスクリームと野菜ジュースを買って帰ってきました。
この世界は小さいものから大きなものまで、さまざまなゲシュタルトで成り立っていると思います。
みなさんも身の回りを観察してみて、いろいろなゲシュタルトを感じてみてください。
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