友達とはなにか①
書き始めようとして、なかなか答えのないテーマだなと感じています。
答えはないのですが、書いてみようと思います。
もう、何ヶ月も前の話ですが、わたしは毎週のように週末にお茶をしたり食事したりしている友達が3人いました。
一緒にいるととても楽しくて勉強になりました。
もともと彼ら3人がいたところに、わたしは彼らによって温かく迎え入れてもらっていたのだと思います。
あるとき、別の知り合いを紹介しようと思い、わたしを含め4人で集まるときにその人を呼んだことがありました。
皆で食事をして楽しく過ごしました。
その後、その知り合いに会ったときに、こう言われました。
「どうして中西さんは、コンフォートゾーンの違う彼らと一緒にいるの? 」
コンフォートゾーンというのは、快適だと感じるものの幅であり、生活すべてにおいてコンフォートゾーンがあります。
その人いわく、「彼らはわたしが付き合う人たちなのか、疑問だ」ということでした。
その人は“healerとしての力”に言及していましたが、どう考えても明らかに収入だけをみて言っているように感じました。
わたしは、気功を始めてから目に見えないものを少しずつ感じるようになり、いろいろなことが透けて見えることがあります。
透視できるわけでも読心できるわけでもなく、肌で感じるというだけですが、おそらくわたしの直感は大きく外れていないはずです。
ちなみに友達3人の収入は、日本の平均収入から乖離していない、普通の収入だったと思います。
「どうして中西さんは、コンフォートゾーンの違う彼らと一緒にいるの? 」
と言われた、わたしの気持ちが想像できるでしょうか。
自分でもびっくりするぐらい、腹が立ちました。
「大きなお世話です。あなたの目はふし穴ですか。」と言いそうになりました。
その人はコーチングのコーチでもあるので、そのことが、残念に思うわたしの気持ちを後押ししました。
一人の人間にはコンフォートが無数にあります。
コンフォートゾーンが近い人たちが集まるとはいうものの、それは、その人がどのコンフォートゾーンを重視するかに依存します。
要は、わたしが一緒にいる人たちがどんな人かは、わたしが何を重視するかに依存します。
それは、わたしが決めることです。
そして、みなさんが決めることです。
抽象度の低い要素だけを見て、友達を蔑まれた感覚でした。
その人自身が寂しいのか、わたしを持ち上げたかったのか、そんなことはわたしに関係ありません。
大切な友達を蔑まれることが、こんなに腹が立つことなのだと、学びました。
ちなみに3人の友達は、稀に見る純粋さを持っている、キラキラしている人たちでした。
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