201610.23

子どもの口内炎

Post by 中西千華 2016年10月23日

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2か月ほど前に、友人からお子さんの相談を受けました。

その方のお話によると、小学生のお子さんの歯並びが悪くて、頬粘膜を噛んでしまって口内炎ができているということでした。

しかもそれが1ヶ月以上続いていて、口腔内で刺激が続いた場合に「癌化」する可能性があると人から聞いて、心配しているというお話でした。

朝は口内炎の痛みで泣きながら起きてくることもあり、食欲も落ちていると言っていました。

確かに、舌癌など口腔内の癌は、継続する機械的な刺激が原因となることがあると、わたしは大学で学びました。

その方は、その話を聞いた一週間後ぐらいに大学病院の歯科を予約しているとのことだったのですが、わたしは少し緊急性があるのではないかと思いました。

わたしが通っている歯医者さんをお伝えして、とりあえず早めに一度診てもらったらどうかと提案しました。

その1~2週間後にその方と会った時に状況を聞いたのですが、紹介した歯医者さんからは大学病院へ行ってくださいと言われたということ、そして大学病院では緊急で何か治療を要する状況ではないという話をされたということでした。

そして、お子さんの口内炎は変わらず、痛みで学校を休んだ日もあり、好きだったサッカーも行きたがらなくなったと言っていました。

みなさんも、お気づきかもしれません。

わたしはそれを聞いて、何かがおかしいと感じました。

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わたしは基本的に、学校や習い事は行きたくなければ行かなくても良いと考えるのですが、それ以前に、お子さんが何かを訴えていると思いました。

医療からのアプローチをやめて、コーチングからのアプローチに切り替えてみようと考えました。

友人に、「これからはお子さんが何か駄々をこねているように感じられることを言ってきたときは、『あれ?どうしたの?あなたらしくないね。いつものあなたはそんな風じゃないよね。』と言ってしらっとしていることを徹底して続けてみてください」と、伝えました。

その後しばらくは、その方からお子さんのお話が出てこなかったのですが、先日久しぶりにお子さんのことを聞きました。

「あなたらしくないね、を続けていたら、学校も休まずサッカーも喜んで行くようになって、サッカーに関しては試合に負けたら悔し涙を流すぐらい、頑張るようになったんです。言葉のかけ方って大事なんですね!」

ということでした。

わたしは口内炎のことが気になっていたのですが、その方は忘れてしまっていたようで、口内炎は当然のように完治したということでした。

歯並びは悪くて頬粘膜を噛みやすいのかもしれないけれど、物理的な構造とは別に、何かを訴えようとして頬粘膜を噛んでしまっていたのかもしれません。

この一連の出来事はわたしにとっては大きな出来事で、本当に、本当に、嬉しく感じました。

相談してくださった方が、根気強く「あなたらしくないね。」を続けてくれたことに、心から感謝しています。

彼女が根気強く続けることが出来ていなければ、口内炎は治っていなかったと思います。

201610.09

子供の泣き声

Post by 中西千華 2016年10月9日


最近、18時頃から20時頃にかけて、ほぼ毎日子供の絶叫のような泣き声が聞こえることに気付きました。

今日も断続的に聞こえていて、なんとも言えない気持ちになります。

泣き叫んでいる子を、こちらへテレポーテーションできないかなと思ったりします。

今の住まいに引っ越してきて3週間になりますが、初めて気付いたのがほんの数日前です。

初めて気付いた時は本当にびっくりして、窓から外をみたところ、道を挟んだマンションの一室の窓が網戸になっていて、怒って叫んでいる女性と、オムツをした幼い子どもが、少しだけ見えてしまいました。

そのときは泣き声は一人じゃないような気がし、兄弟で泣いているようでした。

今聞こえているのは、先日気付いた同じ部屋からではなく、別のところから泣き声がこちらまで響いてきているように感じます。

残念ながら、子どもが絶叫のような泣き方で泣いている部屋が、複数あるようです。

どうして気付くまで3週間もかかったのだろうかと考えていたのですが、わたしの部屋の窓を閉めきっていたからだと気付きました。

大切なことなのですが、誰かの声を聞こうとするときに、わたしたちはこちらの窓を開ける必要があります。

こちらの窓というのは、いわば心でありマインドだとも言えるのですが、それを相手に向けて開けておく必要があると思います。

わたしたちは日々の生活で疲れたり、余裕がなくなることがあって、窓を閉めてしまっていることがよくあるように感じます。

わたしは、たくさんの方々の声を聞くことができるように、できるだけ窓を開放していようと思います。

201608.20

サラリーマン小学生

Post by 中西千華 2016年8月20日

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知り合いに8歳のお子さんがいて、学校の席替えの話をしていました。

同じクラスの子で、人のものを何でも取ってしまう子がいて、その子の近くの席になるとなんでもかんでもモノを取られてしまうので困る、というような趣旨の話でした。

その子は(実際はわかりませんが)裕福な家庭で、お母さんも上品で優しそうなお母さんなのだと言っていました。

そのお母さんは、まさか自分の子供が他人のものを取ることで周りを困らせているなどということは知らないのかもしれないと思います。

わたしはてっきり、その子に何か病的なものがあるのかと思いましたが、どうやらそういう雰囲気でもなく、8歳でも塾や習い事で忙しいから、学校をストレス発散の場にしている子がけっこうな割合でいるようだということでした。

わたしの周りにはあまり子どもがいなくて実際体感することはあまりできないので、ただ「何が起きているのだろうか」と考えていました。

その話を聞いていて、単純な印象としては、「いつ遊ぶの??」と思いました。

朝から夕方まで学校に行って、夕方から塾とか習い事に行って、帰ったら宿題がある生活を想定すると、遊ぶ時間は学校の休憩時間になってしまいます。

小学生が、まるでサラリーマンのような型にはまった生活を毎日しているのかと、考えていました。

日本の社会が、子どもが子どもでいることが許されない社会になっているのかもしれないなという印象を受けました。

子どもというのは放っておいたら勝手に、興味のあるものを見つけだして集中して学ぶものなのではないかと思っています。

最低限の教育は必要ですが、塾など外から与えらる勉強や、しかも競争のなかに放り込まれた中での勉強は、子どもの可能性をかなり狭めるのではないかと思います。

人間は本来、さまざまな可能性をそれぞれ持っています。好きなことは100人いれば100人違います。

画一的で試験で良い成績を取る人間を大量に作るように社会が仕向けているような印象さえ受けます。

以前も書いたことがありますが、日本社会はパノプティコン効果を生み出しています。

わたしたちは、社会に仕向けられているいろいろなことに細かく気付いて、そこから抜け出す必要があると思います。

抜け出すというのは、ある意味、社会的な洗脳から自ら脱出するということになります。

方法として一番簡単なのは、常識を常に疑う、メディアを常に疑う、これだけでずいぶん効果がある気がします。

わたしは、常に、疑っています。

201607.16

電動列車

Post by 中西千華 2016年7月16日

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今日は友人と、友人のお子さんと遊びました。

友人のお子さんはもうすぐ4歳です。

その子が赤ちゃんの時に会ったことはあるのですが、3年ぶりぐらいで、「初めまして!」から始まりました。

ショッピングモールでいっしょにランチを食べて、子供の遊び場で遊んで、アイスクリームを食べて、「列車に乗ろう」という話になりました。

列車といっても電動列車で、ショッピングモールを5~10分で一周してくるものです。

上に載せた写真とは少し違い、もう少し大きく、乗るところは箱型のものがいくつか繋がっており、レールのないものです。

子供用の列車に乗るという経験があまりないので、わたしはためらってしまいました。

5分ぐらいなら木陰で待ってようかなと思いました。

そういう、つまらない大人の考えがよぎりました。

本当につまらない考えだったなと思います。

友人が「チケットがあるから一緒に乗りましょう!」と言ってくれて、一緒に乗りました。

帰ってきて、あのとき一緒に乗って本当に良かった、と心から思います。

もうすぐ4歳というこのタイミングで、一緒に列車に乗らないと、同じタイミングは二度と来ません。

狭い狭い箱の中で膝をくっつけて、電動列車でショッピングモールをまわることができて、楽しかったです。

子供は成長が早いので、時間の一瞬一瞬が宝物で、同じ時は二度と経験できないものが多いです。

大人の論理で子供に向き合うのは完全にやめなければならないな、と思いました。

この子に次会うときはこの子がもう少し成長しているので、その時にも新しいことを一緒にできればいいなと思います。

201607.07

森か公園か

Post by 中西千華 2016年7月7日

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このあいだ電車に乗っていたとき、子供たち3人と、それぞれの子供のお母さんたち3人が乗ってきました。

子供たちは4~5才のように見えました。

昼間で電車は空いており、子供たち3人が私の隣に座りました。

座ると言っても、外を見るために後ろ向きに膝をついて、3人で外を見ながら話し始めました。

「ねえねえ、見えるもの言っていこ!」

「家!」

「車!」

「木!」

「木!あれ?森じゃなーい?」

「えー、公園じゃない??」

わたしは振り返って見ていませんが、おそらく木がたくさんあって、ベンチなどもあったのだと思います。

木がたくさんある様子を、ある子は「森」と表現し、別の子は「公園」だと言って話をしていました。

子供って面白いな、と思いながら聞いていました。

「木」という抽象度のものを視野を広げて「森」と抽象度を一段階上げる子と、「公園」という方向に抽象度を一段階上げる子がいる。

子供とは自然に抽象度の上げ下げが自由にできるのかもしれません。

子供は成長するにしたがって、様々な知識を身に付け、大人から社会の「正解」を教えられて、自由さを失っていくのかもしれないなと思いました。

人間が生まれたときは、知識はありませんが、自由です。

でも、大人になった私たちも、知識の上にさらに知識を得て、自由を選ぶことができます。

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